住吉神社

月刊 「すみよし」

『小泉八雲と蚊の話』
風呂鞏

「くわれもす 八雲旧居の 秋の蚊に」

松江市の小泉八雲旧居(根岸邸)の門を入ると、左に俳聖高浜虚子の句碑がある。虚子が昭和七年の初秋に居を訪れた時に詠んだ句であり、虚子百選の一句にもなっている。

世界には、人に利益を齎したり楽しませたりする好ましい虫がいる反面、作物を食い荒らしたり、伝染病をまき散らして多勢の人の生命を脅かす厄介な昆虫がいる。その恐ろしさ、たちの悪さでは、蚊とノミとシラミは、さだめし昆虫界の代表的三悪と言ってよいであろう。特に蚊は、もたらす病気の種類も様々、世界の各地での被害者の数はペストや発疹チフスの比ではない。蚊が伝播する人の病気の病原体は、黄熱、デング熱、日本脳炎など三〇種ぐらいのウィルス病、熱帯病マラリアなど四種のマラリア、それに二種のフィラリア(糸状虫)など、沢山ある。(栗原毅『蚊の話』参照)

中国新聞(九月六日号)等でも紹介され、ご存じのように、去る八月二十七日、約七〇年ぶりに国内でのデング熱感染が分かった。その後一週間余で、全国各地に感染者がどんどん増えたが、感染源とされたのは東京・代々木公園と周辺の蚊であった。媒介するヒトスジシマカは十月下旬には死ぬため、今は一応終熄している。

デング熱は、発熱、頭痛、目の奥の痛みなどを引き起こす感染症である。原色蚊図鑑などに拠ると、ヒトスジシマカは、体長約四.五o。体は黒色に白彩を有する。胸背の中央に白色の一本の縦すじが通っているのが特徴で、「ヒトスジ」の名はここから来る。竹藪やお墓に多く、東北地方以南、東洋区、オーストラリア区に分布。昼間吸血性、とある。

さて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、一八七八年(明治十一年)アメリカの南部ニューオーリンズに到着した翌年、『コマーシャル』紙の通信員を解雇されたため収入源を完全に断たれ、折からの黄熱病の流行で骨痛熱(デング熱)にも罹り、餓死寸前の困窮状態に陥ったことがあった。友人の援助で急場をしのぎ、やがて『アイテム』社に副編集長の職を得たハーンは『アイテム』紙上に「蚊ども!!!」と題した挿絵入り戯文を載せている。挿絵は、寝ている男性の上から巨大な(メスの)蚊が覆いかぶさるように襲っているエロチックな絵ではあるが、興味深いのは、“蚊の有用性”について述べていることである。

蚊というものがいなかったら、この気候では、我々は恐ろしく怠け者になるだろう。我々はソファの上で鼾をかくか、安楽椅子にだらりとかけて、時間を空費するだろう。あるいはつまらぬゴシップにふけったり、空しい夢を見たり、隣人の持ち物を欲しがったり、自分の運命を嘆いたりするだろう。自分で精を出し、走り回ったり、金儲けをすべきところなのに。怠惰はあらゆる悪の母なのだ。蚊はこのことを誰にも劣らず承知していて、奴ら自身怠け者でないから、我々が怠けないように苦しめるのだ。(木村勝造訳)

日本でも、「英語教師の日記から」の中に「蚊」についての生徒の作文を載せている。

夏ノ晩、ボクラハ、カスカナ声ノヒビキヲ耳ニ聞ク。スルト、小サナモノガヤッテキテ、チクリトカラダヲ刺ス。コレヲ蚊ト呼ブ。英語ノ「モスキトーズ」ダ。ボクハ蚊ニ刺サレルコトハ、有益ナコトダト思ウ。ナゼナラ、ボクラガ眠気ヲモヨヲシテクルト、蚊ガヤッテキテ、小サナ声ヲタテナガラ、チクリト刺ス。ソコデ、ボクラハ刺サレタタメニ、マタ勉強ニモドレルカラダ。(平井呈一訳)

有名な『怪談』にも十七編の作品の他に「虫の研究」として“蝶”、“蚊”、“蟻”の三作品が収録されている。“蚊”では、ヤブ蚊の甲高い羽音と、血を吸われる時の劇しい痛みとを結び付けている。が一方、墓地にある花立の数の多さや、蚊は死者の霊との仏教の教えからしても、蚊の絶滅は難しいと述べる。そして「あの弱々しい、刺すような歌を歌いながら、自分の知っている人達を噛みにそっとそこから出て行かれるように、私はあの竹の花立か水溜の中に、もういちど生れ出る折りを持ちたいものだ」と中々ユーモラスだ。

 ハーンは普通の虫類で愛さないものはなかった。蠅や蚊は払うだけで殺したことのないのは、東京時代ばかりでなく、ニューオーリンズ時代からであった。長男一雄の『父「八雲」を憶ふ』には、次のようなエピソードが語られている。

(父が)夜中に蚊帳から出て机に向かった翌朝などは、机の下に小豆粒を撒いたように血に飽きた蚊がゴロゴロ転がっています。それを見つけて、母や私が父に指差し示して、「さぞ、痛痒かったでしょう?」と訊ねると、「私少しも知りませんでした」と今更驚いて投げ出した足を見ると、一夜作りの赤い黒子(ほくろ)が銀河の如く左右の足に居流れている等、創作に取り掛かると一心不乱でした。

日本でのデング熱発症には、グローバル化で人や物の往来が活発になっている背景もあろうが、温暖化で蚊の生息域が拡がっていることもあろう。すわ一大事ということで、公園など広範囲に殺虫剤を散布するのも止むを得ぬかも知れぬが、共生の観点から、蚊の天敵等を大切にして利用することも考えてはどうか。例えば、トンボ、カエル、クモ、ツバメ、コウモリ(注)などは蚊を食べてくれるし、金魚やメダカだってボウフラを食べるのである。

(注)コウモリは別名「蚊食い鳥」と呼ばれ、コウモリの糞の中には消化されなかった蚊の目玉が入っている。真偽のほどは到底保証できぬが、その糞の中から目玉だけを取り出してスープにして食べる「蚊の目玉スープ」という珍味が中国料理にはあるそうだ。

 

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