お知らせ
月刊すみよし著者紹介
〜照沼好文氏〜
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
平成25年帰幽
〜風呂 鞏氏〜
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『ポ博士の「皇統譜」―日本皇室史の研究―』
照沼好文
英国の貴族出身、ポンソンビ博士が日本に足跡を印し、実際に日本を見聞して、日本と深い縁を結ぶ端緒は、明治三十四(一九〇二)年であったという。爾来、度々わが国に来遊し、わが国風、国情に親しく接近するに及んで、遂にわが国体、国風の讃仰者として、皇室、神道、国体などに関する研究に専念し、それらに関する著述を数多く発表するに至っている。大正八年に来朝して東京に居住したが、大正十二年関東大震災に遭い、その翌々年京都に移り、京都を永住の地を定めた。
ポ博士が日本に永住する動機について、無二の親友ベィティ・トマス博士(一八六九―一九五四)は、つぎのように述べている。
(前略)彼を日本に永住せしめた動機は、まさしく彼がこの国に、真の宗教と、理想 に対する信仰と、神に対する常住不易の認識とを発見したからに外ならぬ。(中略)日本における皇室中心思想、及び皇祖に対する普遍的信仰は、磁石(マグネット)の如く彼を引き寄せた。而して彼は英国(中略)におつて動揺常なき浮世の中に暮すよりも、旧都の御所や古跡を訪ね、その研究に送る方が、一層幸福であった。日本には、人が「新」だ或いは「旧」と言わうと、今なお一箇の普遍的な真理が、国内の至る所に認容されている(下略)。
(『本尊美翁追憶録』所収佐藤芳二郎氏邦訳。)
このベィティ博士の言葉には、日本の国体に魅せられて、日本に永住することを決意したポ博士の心情が十分に語られている。
ところで、ポ博士は大正四(一九一五)年十二月には『世界最古の王朝―日本皇室譜』を発表した。本書はのちに、『本尊美博士著作選集』(第三巻、英文、一九五九年刊)に収録し、刊行されたが、ポ博士は日本語以外の、即ち外国語で詳細に日本皇室史が書かれたのは、本書が最初であると述べている。特に、本書における皇位継承に関する言及については、平泉澄博士がすでに『日本』(昭和三五年一〇月号)の中で紹介されているので、その一節を援用させて頂き、ポ博士の慧眼(けいがん)に接してみよう。
日本の皇統が二千有余年の長さにわたって、連綿と只一筋につゞいてゐる事を述べて、或はその間に養子による相続がありはしないかと疑ふ人があるかも知れないが、それはない、養子が絶無ではないが、その場合も必ず皇室の中から出て居られるのであって、皇室以外の相続は一つも無い事を強調し、そして皇位継承の相互関係を分類して、父子相承が六十四回(女子の場合四回)、兄弟相承が二十六回(女子へ一回、女子より男子へ三回)、叔姪相承五回(叔母より甥へ一回)、姪叔相承が三回(大叔父へ一回)、祖孫相承が三回(祖母より一回)、天皇より皇后へが二回(同時に姪)、天皇より御母へが一回、従兄弟相承が十七回であったとしてゐる。
このように、平泉博士はポ博士の調査考証の緻密周到なこと、正確なことを指摘された。
因みに、明暦三(一六五七)年徳川光圀の開設した彰考館(修史局)の史臣、森尚謙(一六五三―一七二一)の『儼塾集』(げんじゅくしゅう)中には、元禄十一(一六九八)年三月に「皇祚」(皇位)について述べた尚謙の論説が窺える。
恭しく惟んみるに我が大日本、天神七代地神五代、其の嗣は神武天皇と称し奉る、其の即位元年辛酉、今、元禄十一年戊寅に至るまで二千三百五十八年。皇嗣承継、聖代の数一百一十四代、広運玄徳、蕩々乎たり、巍々乎たり、言辞の尽す所に非ず。(原=漢文)
即ち、神武天皇の即位元年辛酉(しんゆう=かのととり)から、今年元禄十一年戊寅(ぼいん=つちのえとら)までを算えれば、紀元(皇紀)二千三百五十八年に当る。皇位は連綿として百十四代を継承し、その御稜威(みいづ)は広大かつ高大であり、言葉で云い尽くせない、と。―皇統一系と万世不滅の姿を述べた。
さきのポ博士も、こうした世界に比類ない皇室の姿を理解し、そして憧憬の念を深めたに違いない。
『由紀さおりの魅力を探る』
風呂鞏
以前にも書いたことだが、小泉八雲の妻・セツ夫人には笑窪があった。ギリシャ生まれの八雲にとって、夫人の笑顔がアルカイック・スマイルを連想させ、美人に映ったらしい。
筆者がアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどへ高校生を引率して、研修旅行をしていた高校教師の頃、或るグループに、丸で“こけし”か“内裏雛”みたいな、目が細く卵型の顔をした女の子がいた。 アメリカ東部の町であったと記憶するが、彼女が“すごく可愛い日本の乙女”として、ホームステイ先で大評判になったことがあった。我々日本人仲間では、西洋人とのハーフのような、目も大きくすらりとした別の女の子の方が友達も多く、美形と思われていたので、意外なカルチャー・ショックであった。
さて、ご存じの如く、今や歌手の由紀さおりが大ブレークである。ステージに立って歌う彼女の姿を見ていると、どうした訳か、アメリカで異常にモテた、目が細く卵型の顔をした先の女子高生を思い出してしまう。個人的には、由紀さおりは和服姿(中でも芸者姿)が最も魅力がある、と思っているが、無論容姿のみが彼女の超人気の秘密ではない。
去る三月十四日の新聞に「芸術選奨 由紀さおりさんら大臣賞」の記事があった。
文化庁は十三日、芸術の各部門で業績を挙げた個人に贈る二〇一一年度芸術選奨を発表した。文部科学大臣賞は歌手の由紀さおりさん(六三)ら、十九人を選んだ。デビュー曲「夜明けのスキャット」をはじめ、ほぼ全曲を日本語で歌ったアルバム「1969」が世界的にヒット。洗練された歌唱と豊かな表現力で、海外公演でも絶賛を浴びた。(「中国新聞」)
二月二十一日のNHKクローズアップ現代「由紀さおり 世界が絶賛 日本の歌の秘密」でも、由紀さおりがジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」と組み、日本語の歌声が世界の人々を魅了したとの紹介があった。さらに先月も彼女は岩谷時子賞を獲得した。
由紀さおりの経歴について多くを語る余裕はない。一九七三年「恋文」で第十五回レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。姉の安田祥子とシンガー・ソング・コメディアンを自称しつつ、抜群の歌唱力で、ハーモニーは国境を越え、幅広い層から支持を得ている。この程度なら、フアンならずとも誰もが知っている常識中の常識であろう。
タレント性があり、コメディエンヌの才能もある。明るさの中に、センチメンタルなものやユーモアがある。我々が幼少期に慣れ親しんだ旋律、温かい母性愛に満ち溢れた、優しい歌声を聞かせてくれる。それらは郷愁を誘い、疲弊した心を潤してくれるのである。“酔い覚ましの清涼剤”との評価もあるらしいが、万人の認める実力派歌手である。
ジャズ、シャンソン、サンバ、クラシック、演歌など、多様な歌を歌いこなす歌手が求められていた時代に育ったことで、その音域の広さ・豊かさは他の歌手達の追随を許さない。スキャットで歌う「トルコ行進曲」も大好評、老若男女を問わずフアンは増える一方だ。
ピンク・マルティーニ(PINK MARTINI)は、米オレゴン州・ポートランドを拠点に世界で活躍するジャズ・オーケストラである。アルバム「1969」は、彼等と由紀さおりの共演である。“一九六九年”と云えば、ベトナム戦争を想い出すが、音楽界ではビートルズやGS(グループ・サウンズ)を初め、フォークゲリラなど、色んな音楽が登場、共存し始めた時期である。アルバム「1969」は、故意にそうした背景を想起させると共に、“洋”から“和”へと、オリジナルなものを探る。メロディを中心としながらも、人工的なサウンドとは対照的な本物の音楽、透明感ある日本語の歌声を求める強い主張が印象的だ。
レナード・ラシェルが一九五四年に作曲した「アリヴェデルチ・ローマ」という歌がある。人口に膾炙したメロディーだが、第二楽章から、Arrivederci, Roma…good bye…et au revoir というフレーズが数回出てくる。「arrivederci」、「good bye」、「au revoir」はそれぞれイタリア語、英語、フランス語で「さよなら」の意である(et は and の意)。
多くの日本人はこの歌で、英語以外の「さよなら」を意味するヨーロッパの語を知った。そして一九五七年公開のアメリカ映画“SAYONARA”によって、今度は世界中が、日本語の「さよなら」という語、その言葉の持つ美しい響きに驚嘆し、魅了されたのである。
余談だが、数日前、日本の女優が地中海の島々を旅する姿をNHKテレビが映していた。ある島を離れる時、そこの住人が彼女に向ってGood byeではなく、日本語の「さよなら」を、さも得意然と連発していたのがまことに印象的であった。
由紀さおりは、世界的にヒットしたアルバム「1969」でも、ほぼ全曲を日本語で歌っている。この日本語への拘りこそが、彼女の大きな魅力の中核であることは明々白々だ。
今や世界は、コピーではなく個性・オリジナリティを求めている。我々はそろそろ、この現実に気づかねばならない。本当に歌を愛する聴衆は熱狂など求めているのではなく、緩やかな波のような陶酔を求めているのだ。個性の無い口から吐き出される、人工語と機械音に心底陶酔する者はいない。聴衆は一人の澄んだ声とリズムに身を委ね、その美しい日本語を聞きながら、言葉の奥にあるイメージを膨らますことの出来る静かな時間を期待している。こうした場にこそ、歌手と聴衆との理想的なコラボが構築されるのである。
小泉セツ『思い出の記』に拠ると、八雲は『怪談』の冒頭作品「耳なし芳一の話」を再話する際、武士が「門を開け」と叫ぶところを、「開門」という日本語で凄味を出すべく工夫した。文のリズムに心血を注いだ「耳の人」八雲ならではの鋭い感性が伝わってくる。
クリスタルな声で囁くように歌う由紀さおりの魅力もまた、原点回帰とも云うべき、日本語の美しさを強力な武器にして舞台に立つ、その頑固さにあるのではあるまいか。
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