住吉神社

月刊 「すみよし」

『ポンソンビ博士の高節』
 照沼 好文

英国の貴族出身のリチャード・ポンソンビ・フェイン博士(一八七八―一九三七)は、大正八(一九一九)年八月、初めて東京に住居を定めて、日本永住を決心された。その後、大正十四(一九二五)年京都に転居し、昭和十二(一九三七)年十二月十日その地で、六十歳の生涯を閉ぢた。ポ博士の日本における生活―居・食・住等は、すべて和風様式で、博士はつねに「英国は訪問するので、帰国ではない。日本へは帰朝するので、来朝ではない」と言い、京都へ居を移されてからは、「帰洛する」(京都に帰る)という言葉を使っていたという。

ポ博士の無二の親友であった国際法学者ベイティ・トマス博士は、日本文化に魅せられ、日本永住を決意したポ博士について、こう述べている。

(前略)道聴途説(どうちょう・とせつ)や不可知論(ふかちろん)に隨した世にあって、日本における皇室中心思想、及び皇祖に対する普遍的信仰は、磁石(マグネット)の如く彼を引き寄せた。而して彼は英国(中略)にいて動揺常なき浮世の波の中で暮すよりも、旧都の御所や古跡を訪ね、其の研究に日を送る方が、一層幸福であった。日本には、人が「新」だ或は「旧」だと言ほうと今尚一箇の普遍的な真理が、国内の到る所に認容されている。云云

(道聴途説=いい加減な世間のうけうり話。不可知論=人間は感覚的に経験する以上のことは知ることはできないという主張。)

かくて、ポ博士は日本の理解とその文化的意義の発見高揚のために、日本歴史及び皇室制度の研究、神道及び神社の研究、そして日本の教育や日本人の日常生活に関する思索評論等にわたって研究を展開してゐる。

とくに、ポ博士の皇室に対する崇敬の念には、日本人でさえ到底及ばないものがあった。ポ博士の門弟佐藤芳二郎氏は、つぎのようなことを語っている。

先生は愛国者であったと同時に、心からなる尊皇家でもありました。皇室に対するその真摯さには敬服を禁じ得ませぬ。かの昭和御大典の際は、先生は特に建礼門前列立拝観の恩栄に浴したのですが、聖駕東都遷幸の砌、京都御所御苑内で鹵簿(ろぼ)通御のとき、下駄を脱ぎ、額を大地にすりつけて、即ち文字通り土下座をして奉拝されたのでした。

当時の人びとは、このポ博士を称して、「碧(あお)い眼の高山彦九郎」と呼んだという。

しかし、こうしたポ博士の言動の背景には、日本に対する強い畏敬と尊敬との情念があったからである。ポ博士の『昭和御大典印象記』を見れば、その一節に、

或国の偉大さと云うものはその国の面積で決められるものではなくて、その国が世界に及ぼす影響や、その国の過去からの伝統によって決まるものである。…日本は明らかに偉大な国である。先頃その即位の大礼を執り行わせられた現在の日本の統治者は第百二四代の天皇(昭和天皇)に在らせられるが、世界の中にこの半分の古さでもあると自称し得る国が在るか、どうか疑わしいものだ。だから日本の君主の即位式には畏敬の念や尊崇の情を起こさせずには置かないようなものが尽く含まれている。即ち、偉大な国民、建国の古い帝国、偉大な伝統、連綿二千五百余年の古(いにし)えにさか登る皇朝等があるからである。(佐藤氏の邦訳に拠る。)

現在、日本における古くからの芸術、文化或いは日常の衣食住等の様式までが、世界中の人から注目され、話題の俎上にのぼっている。しかし、こうした日本文化等における大切な根幹については、あまり語られていない。いま、私がポ博士の日本学に学ぶ所以(ゆえん)である。

 

『エドワード・B・クラーク』
風呂鞏

唐突にクラークという名前を聞いても、その人物像に戸惑われるかもしれない。

去る六月二九日、『日本産経新聞』文化欄の紙面を大きく使って、星野繁一龍谷大学准教授の「生涯通じてfor ALL」―日本ラグビーの父に見た「ノブレス・オブリージュ」―と題する、クラークの紹介記事が掲載された。私自身は『日本産経新聞』を購読していないので、そのまま気づかず見過ごすところであったが、その記事を偶々目に留めた友人がわざわざ切抜いて送って下さったのである。

ラグビー関係者なら常識として誰もが知っていることだが、日本のラグビーの歴史は一八九九(明治三二)年に慶応大学から始まった。一八九七年日本へ帰国したクラーク(一八七四‐一九三四)は、二年後慶応義塾の講師に任ぜられた。そしてケンブリッジ大学時代の同窓田中銀之助とともに、塾生による日本で初めてのラグビーチームを結成し、その指導に当ったのである。クラークが今日、“日本ラグビーの父”として知られるようになった所以はここにある。

寄稿者の星野氏はラグビー日本代表に選ばれたこともある、ラグビー界の重鎮の一人である。クラークのその後の人生について余り知られていないことから興味をもたれ、調査を始められたらしい。やがて、クラークが「ノブレス・オブリージュ(高貴なものの義務)」を実践した類稀な人物であったことを知るに至り、クラークの生涯を振り返ることで、ラグビー精神の何たるかを確認したいという気持ちが高まった。氏の言葉にあるように、「昨今のラグビー界では不祥事が相次いでいる。クラークの生涯に光を当てることが、ラグビー界発展の一助になれば・・・」との熱い思いから、クラークの生涯の紹介を思い立たれたことは間違いない。時宜を得た記事と納得した。

エドワード・クラークは一八七四年横浜に生まれた。両親は英国人で、父は貿易商人、横浜一のベーカリーを経営していた。母は彼が生まれて間もなくこの世を去り、父が日本女性と再婚、クラークはこの継母に育てられた。五歳から横浜のキリスト教会学校、フランス学校に学び、ヴィクトリア私立学校を卒業した後、英国に渡ってケンブリッジ大学に入学した。卒業後日本へ帰国したクラークが、一八九九年慶応義塾の講師に任ぜられたのは先に紹介した通りである。一九〇七年、第一高等学校の講師に迎えられた頃、関節リューマチに冒され、右足切断という不幸に見舞われた。以後クラークの名前はラグビー界から消えるが、やがて東京高等師範学校、第三高等学校、京都帝国大学などに招聘され、英文学その他を講じた。教育者としてまことに輝かしい経歴という他ない。多年に亘る教育界への功績が認められて、昭和六年には、勲四等瑞宝章を受けている。その後も、教えを乞う人達のために労力を惜しまず、一九三四(昭和九)年、卒業論文審査中に脳溢血で亡くなった。享年六〇歳であった。彼がラグビーだけの人ではなく、熱心に学生を指導する教師であったことが多くの人々の思い出に残っている。

ところで、エドワード・B・クラークは小泉八雲研究家にとっても、お馴染みの人物なのである。星野氏の記事にもあるが、一八八八(明治二一)年、クラークは十四歳で横浜のパブリックスクール(ヴィクトリア私立学校)に入学した。

一八九〇(明治二三)年四月に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、五月頃に、ハーンの文才を認めた校長ヒントン宅に滞在を許され、最上級生であったクラークの英作文の個人添削を依頼されていたのである。夫人がハーンの目を嫌がったため、数週間後に喧嘩別れの形でハーンは追い出され、個人指導は短期間で終るが、クラーク自身はハーンから書く喜びを教えられたことを生涯忘れなかった。

ハーンとの出会いについては、「ハーンと過ごした束の間の日々」(注一)という回想文が残されており、ハーンと初対面した時のクラークの印象は次のように極めて好意的なものである。

椅子のひとつに腰掛けていたのは、背の低い、肩幅のある、浅黒い男の人だった。美しい形の頭の黒髪には、既に白いものが混じり始めていて、こめかみの辺りはうっすらと銀色に輝いていた。口髭を除き、顔には綺麗に剃刀が当てられ、私がその時、何よりも驚いたのは、その清潔な様子だった。

クラークは自由課題の作文を書き、ハーンに添削してもらう授業を受けたが、「よい文章を書こうと思うなら、快適な暮らしをしては駄目だ。快楽は仕事を成し遂げるための気迫を損なう。不愉快は文学的霊感に不可欠のものだ。・・・自分の成し遂げたことに決して満足してはいけない。君はもっと素晴らしくなれるのだから。満足すれば進歩は止まる。不満こそが上達の証しだ。」というハーンの教えに最も強く影響された。

いかにもハーンの作家魂を髣髴とさせる、凄味を含んだ言葉だが、ハーンが幼い者に対しても、容赦なく自己の信念全てを曝け出し、指導に当る様子が犇々と伝わってくる。教師として文学と教育を愛したクラークの生涯が、正にハーンによって決定付けられたと言ってよいのかもしれない。それを裏書きするかのようなクラークの言葉がある。

私はハーンと過ごした束の間の日々をとても誇りに思っている。ほんの一時期とはいえ、彼が私の先生であったこと、そして私が彼の初めての生徒、おまけに私の知る限りでは、日本における唯一人の外国人生徒であったことは、私の自慢の種なのだ。

(注一)平川祐弘編『小泉八雲 回想と研究』(講談社学術文庫、一九九二)に遠田勝氏の訳が載っている。もとは『大阪朝日新聞』に英文で大正七年三月二五日より四月四日まで連載されたものである。文中の引用は遠田氏の訳文を借用させて頂いた。

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