お知らせ
月刊すみよし著者紹介
~照沼好文氏~
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
~風呂 鞏氏~
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『幕末ー一つの外交論』
照沼 好文
NHK大河ドラマ「篤姫」がいま、正に佳境に入ろうとしている。薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)(一八〇九―一八五八)の養女篤姫が十三代将軍家定に嫁して大奥に入り、かつそのドラマが展開されるところである。しかし、このドラマの背景である天保期(一八三〇―四四)から、幕末へ向う国内・外の情勢をみると、暗雲漂うただならぬ極めて、多難な国家未曾有の時代であった。
ところで、先般私は東京在住の和田清治氏所蔵『異国船渡来二付 水戸藩秘録』という手書の書翰類を集めた資料集、借覧の機会があった。この『秘録』には、嘉永六年(一八五二)六月、ペリー率いる黒船の浦賀来航から、安政四年(一八五四)頃までの幕閣、諸侯の対米に関する書簡類を中心にした貴重な資料を、幸い手に取ってみることができた。今回はその中から安政四年十月、米国総領事ハリスが下田に駐在し、度重なる幕府との交渉の末、江戸出府、将軍会見が許可された折の資料を中心に、幕末の一時期における問題を紹介してみよう。
既述のように、ハリスは安政四年十月に、江戸に参府、将軍家定に謁見したが、後日再び老中堀田正睦(まさよし)(一八一〇―六四)を老中邸に訪れ、堀田・ハリス会談を行なった。その席上でハリスが陳述した筆記録が、
安政四年巳十月廿六日堀田備中守殿宅におゐて亜墨利加(アメリカ)使節申立之趣と題して、この『秘録』に見える。ハリスはとくに世界の大勢を論じ、和親交易の急務であることを説いているが、その大体を云えば(大意)、
一、暗にわが鎖国政策の危険を諷示している。かつ 日本においても、外国使節の都下駐在と、自由に貿易を営むことの二件の許容を求めている。
一、現今世界の形勢は、一国の孤立を許さないので、速やかに米国との通商条約締結の緊急性を強調して、条約締結を要求している。
と、ハリスは頻りに江戸の地に商館を立て、自由な交易を求め、早急な通商条約締結を望んでいる。なお、当日のハリスは頗る満足の意を示して、
一、今日申立候儀御取用ひ相成、日本安全之御申立と相成候(へば)、無此上幸之義御座候。(本日申上げた意見を御採用になり、日本安全のための建言になれば、この上ない幸いです)
一、今日は私一世之幸之日御座候、(本日は、私の生涯の中で、一番晴れやかな幸いの日です)
と以上の言葉を書き残しているが、当時外国奉行であった岩瀬忠震(ただなり)(一八一八―六一)が、「鎖国論者にもこまれども、堀田の如く交易さへ許せば、百年無事とするには尚困る」と述べた言葉はとくに傾聴に価する。
とまれ、幕府はこのハリスの陳述筆記を、徳川三家をはじめ諸侯に回覧して、意見を求めた。水戸藩に対しても、これを徳川斉昭・慶篤(藩主)に送って意見を求めている。これに対して斉昭は、このハリスの要求の容易でないことを痛感して、一通の書簡に托して一大策論を幕閣に建言した。
とくに、斉昭は自ら米国に渡航し、彼の要求を撤回し、かつ先方の言いなりだけでなく、日本から進んで交易を求めるべきであると、国内における交易方針の変更を主張し、実行しようとした。
つまり、行詰った幕府の対米政策に対する斉昭の打開策、即ち「彼我主客」の形勢一変のため、所謂「出交易(でこうえき)策」を、幕府に提言した。斉昭は、この書簡の末尾を、つぎのように結んでいる(大意)。即ち、
今回来日の米国使節が、どんなに日本のためと云い、また親切な言動をもってしても、所詮この国に生れ育ち、この国の恩顧を蒙ってきた者達の「日本のため」という言葉とそれとには、自ら隔たるものがある。いま、この国家未曾有の国難の秋、私は身命を賭して国家のため、奉公したいと、非常な決意を吐露している。
以上、とくに、幕末の一時期における対米問題について見てきたが、就中水戸斉昭の対米政策、かつそれに対処する心構え等々には、なお現代にも通用するものがあり、また現代の為政者の見習うべきものがある。
『源氏物語千年紀』
風呂鞏
今年、二〇〇八年は、『源氏物語』の成立からちょうど千年目に当る「千年紀」である。それを象徴するかのように、本屋の店頭には、瀬戸内寂聴の現代語訳(全十巻、講談社文庫)を初め、数々のガイドブック、特集記事を載せた雑誌などが、所狭しと並んでいる。
『源氏物語』と聞いて思い出すのは、高校時代に初めて国語の授業で習ったことである。教科書に載っていたのは、第一帖「桐壺」の書き出し部分の他わずか二,三頁で、今でも覚えているのは、冒頭部分の「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」(注一)くらいしか記憶にない。それも高校入学後初めて日本の古典というものに接して、『徒然草』から読み始めて間もない時期だったので、『平家物語』などと違って、正直まるで文の意味が理解できなかった。先生の説明も忘れてしまったが、当時は、『源氏物語』五十四帖の作者が紫式部であることと、恐らく光源氏を主人公とする“レイプ小説”に近い作品であろう、といった程度の、実に貧弱で好い加減な知識しか持ち合わせていなかった。
『源氏物語』の書名を知らない日本人はいないと思うが、仮令現代語訳にしろ、全巻を通して読んだ人は少ないだろうし、ましてや原文で通読した人は、少数の専門家を除けば、殆んどゼロに近いかもしれない。森鴎外や夏目漱石も源氏は余り好きでなかったし、幕末に日本に来たアーネスト・サトウやB・H・チェンバレンも源氏を評価しなかった。
一九二三年の創業以来世界のジャーナリズムをリードし続けてきたTIME誌が、一九八三年八月の日本特集号で『源氏物語』に触れ、「西洋人は近代小説の原型を、『ドン・キホーテ』に求める傾向がある。しかし実は、十分こなれた小説の最初の例は、セルバンテスより六〇〇年も前、中宮彰子の女官だった紫式部が書いた一一三五ページの『源氏物語』である。この十一世紀の作品には、“近代的”要素、つまり性格分析、時と場所の省略、各章に分ける書き方などが、まとめて提示されているのだ。」と評した。また、「世界を動かした百人の人物」では、日本から紫式部と葛飾北斎の二名を選び出した。『源氏物語』は、今や国境を越えて、れっきとした世界文学になっているのである。
このように事情が変わったのは、アーサー・ウェイリー(一八八九-一九六六)の御蔭であった。彼こそ西洋において『源氏物語』を最後まで読み通した最初の人物であった。ウェイリーは生涯一度も日本を訪れたことはなかったが、彼が仕事をしたのがロンドンで、ニューヨークでなかったのも幸運であったかもしれない。彼が住んでいたのはブルームズベリーのゴードンスクエアであった。ブルームズベリーと言えば、経済学者ケインズなど、イギリスの一番のエリートが住んでいるブロックである。そこには、オックスフォードやケンブリッジの文学関係者の個人的な付き合いの場、つまり平安時代の「文壇」にも似たまとまりがあり、彼等は自分達こそ一番洗練された知的エリート階級であると思っていた。そこにウェイリーの源氏物語の訳が出て、文化的ショックを受けたのである。
『源氏物語』は、現在の「小説」に必要とされる二つの要素、つまり、日常の出来事と主題が人物であることの両方を兼ね備えている。ブルームズベリーの人びとは、東洋の女流小説家が一千年前に書いた作品の登場人物の感情の動きやその洗練さが、自分たちの感受性を凌駕していることに驚き、「源氏を読まなければ一人前ではない」と感じるまでになったのである。
源氏の恋の相手である夕顔と葵の上が、六条御息所の恨みで不可解な死に方をするが、その六条御息所が「死後に人の魂が仇に付きまとうのはよくあることだ」と思案する場面がある。こういった考えは『ジュリアス・シーザー』で、シーザーの亡骸がブルータスとカシアスという二人の暗殺者を追い詰め、彼等を自殺へと追いやるシーンを想起させる。
源氏とシェイクスピア文学との比較研究も年々盛んになって来ており、英語圏の人々が、世界の古典文学としての『源氏物語』に高い価値を見出している表われであろう。
国内では、この日本文学の最高傑作は、本居宣長によって「もののあわれ」の観点から、また折口信夫には「いろごのみの道徳」と捉えられたが、『源氏物語』の重要なポイントは、何と言っても、『古事記』『日本書記』以降の日本文化の核になっている “和歌と物語り”によって出来ていることなのである。
岡野弘彦ほか五名による『国境を越えた源氏物語』(PHP研究所、二〇〇七)という好著が出ている。今回“源氏物語千年紀”を執筆するに当り、この本から多くの示唆を得た。
この本は「源氏物語のテーマ性」「英文学から見た源氏物語」「優れた翻訳者の存在」という三つの視点から、『源氏物語』の真価に迫ろうとする、啓蒙的な意欲作である。源氏物語千年紀にふさわしい出版と断言できる。次の引用文も当然、その本からのものであるが、“古代やまとことば”という重要な視点を思い出させてくれる。
源氏物語の奥行きの深さは、そこに描き出された人物の奥に、ただ平安時代にとどまらず、長い過去の時代に遡源して、われわれの親達の心のありようを思わずには居られない思いに引き入れられてゆくことである。殊に、現存する書物や記録が輸入した文字によって書き留められた時期よりも更に古代、われわれがまだつぶさには知ることを得ていない古代やまとことばによって歌われ、語られた伝承の内容を、垣間見せてくれるものが多く潜んでいます。
(注一)Arthur Waleyの英訳本(一九二五)では、次の如く平易に訳されている。
“At the Court of an Emperor (he lived it matters not when) there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one, who though she was not of very high rank was favoured far beyond all the rest.”
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