お知らせ
月刊すみよし著者紹介
〜照沼好文氏〜
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
〜風呂 鞏氏〜
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『子どもを思う歌』
照沼 好文
このところ、テレビや新聞などのメディアを通して、子供に関する暗い話、所謂虐待や暴力、甚だしいのは幼い生命を失うという忌まわしい報道に、心の傷む思いである。嘗て、日本にはこうした残酷な家庭や、親は物語の中に出てくる位で、日常耳にすることはなかった。
ところで、日本の親子関係には、まことに微笑ましい光景が、日常の生活に見られた。
たとえば、俳人小林一茶の句を引いても、子供に対する母親の愛情を詠んだ句が見られる。
しぶいとこ母がくひけり山の柿
俳句研究で有名な英国人、H・R・ブライス博士は、この句を解説して、
この句には、星を動かすような深い愛情が籠っている。つまり、子どもの食べかけた柿、それも柿の渋味のところだけを母親が食べている姿には、むしろ釈迦やキリストの愛よりも、もっと深い母親の愛情が、身近に感じとれる。(ブライス博士著『俳句』英文、北星堂・一九八二年刊)
このように、博士は一茶の句に、母親の無上の愛を理解したが、果して荒廃した今日の社会において、この句の世界が容易に理解されるだろうか。しかし、あまり古くない日本における親たちは、特別に他人から学んだわけではないが、一茶の句のような生活が、自然に行われていた。
――幼い児が、口のまわりにつけた飯粒を、にこにこしながら一つ一つ母親が摘んで、自分の口に入れている姿、堅い栗の実を母親が噛み、やわらかくして「口うつし」に幼児に与え、一緒に笑みながら美味しさを共有している和やかな姿など、枚挙にいとまがない。
ところで、万葉歌人、山上憶良の歌には、家族や子どもたちを詠んだ歌が『万葉集』中に見える。たとえば、「貧窮問答の歌」では、当時貧しかった憶良の家族、子どもたちとの生活の苦悩を、具体的に描写している。千五百年昔の歌人憶良の家族、まして子ども達への温かい愛情が、読者に伝わってくる。(万葉集、巻五‐八九二)
また、「山上憶良、宴席を中座する時に作った歌」には、
憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれ彼の母も吾を待つらむぞ
と詠んだ短歌が見える。
そして、「子等を思ふ歌」(万葉集、巻三‐三三七)として、つぎのような内容の歌を詠んでいる。
甜瓜を食ふと、子どもが思ひ出される。栗を食ふと、尚更思ひ出される。さうした風に、何につけても、思ひ出される子どもといふ者は、一体如何いふ処から、如何してやつて来たものであるか知らぬが、目の間に、心もとないばかりに、始終ちらついてゐて、安眠をばさせないことだ。(1)
反歌
銀も、黄金も、あらゆる宝も、どうして一等の宝なものか。子に及ぶ宝があろうか。(2)
万葉時代という遠い昔の歌人が伝えた一連の歌の心が、どうかして現代の若い親たちに滲みていって欲しいと願う。成長してのち、「愛されて育った記憶」の大切なことを、いろいろな社会の立場で考えたいこの頃である。 [註](1)
『小泉八雲記念館のパンフレット』
風呂鞏
小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーン(一八五〇−一九〇四)は明治二三年(一八九〇)に来日、明治三七年に五四歳で没した。今も東京都立雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋)に眠っている。以上は周知のことである。
平成二年、松江市で「小泉八雲来日百年記念フェスティバル」が大々的に開催され、それが今日のハーン・ブームの引き金となったことを記憶する人もあろう。
あれから二十年、今年はハーン来日一二〇年(生誕一六〇年)の記念すべき年に当る。松江では十月に、顕彰団体等によるシンポジウムや造形美術展「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン」など、“来松一二〇年記念事業”を計画している。
言うまでもなく、松江は小泉八雲顕彰活動のメッカである。そして松江城を囲繞するお堀の北側、今も往時の面影を遺す塩見縄手には、有名な「小泉八雲記念館」がある。この記念館は、観光客をはじめとして、松江を訪問する誰もが、必ず一度は訪れる聖地であり、ハーンの一生、特に松江時代のハーンの事蹟を偲ぶ絶好の場所である。それと共に忘れてならないのは、記念館建設に尽力した人々の想いを通して、より一層ハーンの心に迫ることの出来る象徴的な場所でもあることだ。
記念館(目下の管理は、NPO法人・松江ツーリズム研究会)が、現在発行している小パンフレットには、確かに、八雲の生涯、著作、施設案内などの説明は載っている。しかし誠に残念ながら、記念館誕生の歴史や、建設に尽した人達の努力への配慮はない。今や「小泉八雲記念館」は、国内のみならず、外国からの訪問客も多い。入館者に対し、建設の由来や裏話なども載せた、より親切なパンフレットが必要ではあるまいか。
富山大学付属図書館の「へルン文庫」、そのパンフレットには、“ヘルン文庫の由来”が載っている。参考までに、要約の形で一部を引用すると、
ハーン亡き後、蔵書は小泉家で保管され研究者に利用されていました。大正十二年(一九二三)の関東大震災で多くの貴重な文献が焼失。小泉家では危惧を感じ、蔵書を安全に保管できる大学へ一括譲渡したいという強い意向を持っていました。ハーン没後、『小泉八雲全集』などでセツ夫人の助手をしていた、田部隆次氏(女子学習院教授でハーンの高弟)は、旧制富山高校(富山大学の前身)創設準備のため上京した実兄の南日恒太郎(初代校長で英語・英文学者)に、小泉家の意向を話しました。それを聞いた南日校長は、新設の富山高等学校へ全国から優秀な研究者を集めるには何としても確保したい蔵書と思い、是非とも富山高等学校へ譲渡してくれるよう依頼しました。南日校長は、北前船の交易で資産家であった富山市岩瀬の馬場家(富山高等学校創設のための資金を寄付された家柄)の馬場はる子氏に購入資金の援助を懇請し、その結果馬場家が小泉家から買い取り、同校の開校を記念して寄贈しました。
ハーンの弟子厨川白村が、恩師を慕って大正十一年松江を訪れた時、市民が余りにも八雲について無知無関心であるのに驚き、また、市内に八雲を記念顕彰する何物もないのを憤って、「へルン先生の歿後すでに二十年に近いが、その間松江に居た知事とか市長とか云う者は何をしてゐたのだ。」とハーン顕彰の貧困を突いたことは、余りにも有名である。(七月五日発行の「週刊朝日」夏季特別号)
白村の憤りが功を奏したのか、高橋節雄市長や旧居の根岸磐井氏などの尽力もあって、ハーン顕彰の気運は高まり始めた。昭和二年には、セツ夫人からも遺愛の机・椅子の寄贈があった。しかし記念館建築が本格化するのは、東大教授市川三喜博士の松江訪問と晴子夫人の助力に端を発するのである。その間の事情は、市河博士編纂の市河晴子・三榮追悼録『手向の花束』(昭和二〇年、非売品)に委しく描かれている。
昭和七年秋始めて松江に旅行して小泉八雲の遺跡を訪ね、市庁に行って文豪の遺品を見せてもらったら、それが全部物置のような土蔵の中に仕舞われていて火事でもあったらひとたまりもない有様なのに痛く憤慨して、帰途「何とかしましょうよ」と言われたのに端を発し、文豪の貴重な遺品を永久に保存して、一般に展覧せしめ得るよう記念館を建設するために「小泉八雲記念会」を起して広く有志に呼びかけることになった。(中略)その建設資金募集の檄文も事務一切の処理も晴子が進んで引き受けたのであった。
昭和八年に、市河三喜博士首唱で全国的な「小泉八雲記念会」が生まれ、八雲の顕彰事業として松江市に記念館を建設することを決め、遺品、資料の収集と建設資金の募集にあたった。全国から寄せられた寄付金約六五〇〇円(寄付者四三二名)で八雲旧居の隣接地に建設。待望の「小泉八雲記念館」は昭和八年(一九三三)十一月二九日に竣工した。三五〇種の書籍を購入し、市河博士自身も三四五冊を寄贈。翌年六月、記念館は松江市に寄贈された。その後、昭和五九年に改築され、今日に至っている。
こうした沿革の一部は、旧版のパンフレットには載っていたが、今のパンフレットにはない。建物の説明として、「旧記念館は、ドイツのワイマールにあるゲーテ記念館を模した山口蚊象氏設計による洋風建築であったが、現記念館は、伝統美観指定地区のため、木造平屋和風造り(一部鉄筋土蔵造り)として昭和五十九年に改築されたものである。」との記述があるのみだ。富山「へルン文庫」の由来解説に比して、相当物足りない。
市発行の『松江観光事典』や『松江観光文化検定試験』も、設計者の山口蚊象を“ぶんしょう”と振り仮名を誤っている。厨川白村の苦言を繰返さぬ為にも、来松一二〇年の今年、松江市は出版物やパンフレットを見直し、充実を図って欲しいものだ。
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