お知らせ
月刊すみよし著者紹介
〜照沼好文氏〜
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
平成25年帰幽
〜風呂 鞏氏〜
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『ハーンと落語「大山詣り」』
風呂鞏
小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンといえば、「耳なし芳一のはなし」や「雪おんな」、あるいは「むじな」などの怪談で有名な作家であることはご存じの通りである。その上に、『すみよし』の愛読者の中には既に“ハーン曼荼羅”というか、ハーンという人物の多面性、様々な顔に気付いておられる方も少なくないと確信する。
妻セツが物した『思い出の記』を読めば、書斎で浴衣を着て、静かに蝉の声を聞くのを楽しみしていたハーンも、感情の鋭敏な一国者であった姿が印象的である。長男一雄の著した『父「八雲」を憶ふ』には、家庭教育で「速く学ぶ下され。パパの命待つないです」と、スパンクも辞さずストイックな指導を続けた厳しい父親像が鮮明である。 ハーンが晩年に親しく付き合い、資料提供も受けた雨森信成の追悼記「人間ラフカディオ・ハーン」を開けば、夜間ランプの灯りのもとで執筆に没頭していたハーンの、まるで異界のものと通じ合っているかの如き、物凄い形相に圧倒されてしまう。
こんな多様な顔を持つハーンではあるが、“笑い”の大好きな人物でもあったことは案外と知られていない。ニューオーリンズ時代の新聞記者ハーンが、夜明けのトマト売りの声をわざと聞き違えて“Tom-ate-toes!” “Whose toes?” “We should like to know.”(「トムが足の指を食った!」「誰の足指だい?」「知りたいね」)と読者をからかって独り楽しむ悪戯心のあったこと、ご記憶であろうか。ハーンは幼児期にダブリンで育ったこともあって、皮肉のきいたアイリシュ・ユーモアの感性豊かな人間であり、悪戯好きの少年であった、と学生時代の友人達は語っている。妻セツによると、「あのように考え込んだり、怪談好きである事から、戯談など申さぬだろうと思われるようですけど、折々上品な滑稽を申しました。“いつも先生に遭うと、何か一つ戯談の出ないことはない”と申された方がございました。」との言葉もある程だ(『思い出の記』)。
ところで、筆者は学生時代を含めて七年近く東京で暮らしたが、その間よく寄席に通った。故郷広島に帰ってからも上京の機会があれば、二度に一度位は上野鈴本演芸場に立ち寄って半日を過ごすほど、落語大好き人間の一人なのである。
もう一年以上前になるが、左眼の白内障と黄斑部(硝子体)の手術の為一週間入院した。右眼は正常だったので、退屈しのぎで気楽に読める書物数冊を病床に持ち込んだ。その中に愛読書の一つ安藤鶴夫『落語鑑賞』(上)(下)があった。有名な「富久」という話を初めとして二十篇以上の古典落語、それに「四代目小さん・聞書」を楽しく再読した。再び落語への興味を掻き立てられ、退院後自宅の書架から落語全集を出し別の演目に眼を通していた。すると、久しく忘れていた「大山詣り」という作品にふと眼が留まったのである。
江戸時代中期には町人や商人は講中をくみ、遠地の社寺に参詣する旅を楽しんだ。「大山講」というのは、相模の国大山の石尊さまという神様を守護神にした、一種の組合である。前述の落語「大山詣り」は、その旅中の出来事を種にした笑い話である。講中の仲間が或る酒癖の悪い男を懲らしめようと、男が酔いつぶれた晩その男の髪を剃り落し丸坊主にする。翌朝他の者は、そのまま男を残して早立ちをする。残された男は仕返しのため、一足先に江戸へと帰り、坊主頭になったのは乗った船がひっくり返って仲間全員が溺死したからだと、女房たちを騙す。そして亭主の菩提を弔うために尼になれと、今度は彼女たち全員の髪を切ってしまう。そこへ亭主たちが怪我もなく帰って来たので、「おけがなくておめでたい」(「毛がない」と「怪我がない」を掛けている)というオチで終るのである。
この「大山詣り」(約二十分)は六代目三遊亭圓生という昭和の名人が得意としていた。その絶妙な語り口(特にその「噺のまくら」の味わい深さは他の追随を許さないと謂われる)で有名な三遊亭圓生の名演(生の声)が今も残っている。昨年末には、そのCDを「広島ラフカディオ・ハーンの会」の例会で皆さんにも聞いて頂く機会をもった。
さて、落語「大山詣り」のことを何故持ち出したのか、と不思議に思われる方もあろう。驚くなかれ、実はハーンがこの落語を松江の中学校における授業で紹介しているのである。松江時代の教え子である落合貞三郎(のちに学習院大学教授)のノートにその記録が残されていてビックリするのだが、恐らく松江への赴任の際、通訳兼道案内として同伴した真鍋晃という人物から聞き、話の面白さに魅了されたのであろう。
島根県尋常中学校(松江中学)は、ハーンが初めて赴任した学校である。教室には、石原、大谷、小豆澤、といった優秀な生徒ばかりとは限らず、いたずら坊主もいた。中学でハーンから直接教えを受けた高橋節雄松江市三代目市長によると、教室内のハーンは、見える方の眼を生徒の方に向けて、教壇の椅子に横向きに腰掛け、本を右手に持ちながらリーディングをしたが、「吾々一年生は何分頑是ない小坊主なので、授業が長くなると、その内後ろの方から段々騒ぎ出す。いくら寛大の先生でも遂に堪り兼ね、起って生徒の方に向き直り、単眼鏡を右目に宛がってBoys, boys, don’t speak so much!」と諭されたという。
こうした際の“落語”導入こそ、いたずら盛りの中学生を相手にハーンが捻出した妙案であった。授業の冒頭に「噺のまくら」のように話すことが、自分の方へ興味・関心を呼び込むための優れた技法であることに着目したのである。勿論内容は聞いたそのままでなくて、ハーン得意の再話手法で、結末も生徒たちに分かり易いものに改変されていたに違いない。落合のノートでは、この話のタイトルが「悪ふざけは慎むべし」となっているからである。“笑い”と同時に、教訓的な要素を加味しているところは、如何にもハーンらしい。
教壇に立った経験のなかったハーンが、初めて赴任した中学校で落語を用いる授業を始めたという事実には先見性を感じる。禄に冗談など言う余裕がなくノルマに追われるのみで、無味乾燥な授業を強いられる昨今の教育現場にとっては、ハーンの教師像、授業実践が一つの展望を示唆してくれるのではなかろうか。
ソチ五輪と記録的大雪
宮司 森脇宗彦
ロシアのソチでは先月、連日熱い闘いがつづいていた。
冬季五輪での日本人選手の活躍がリアルタイムで届く。
フィギュアの羽生結弦選手の今大会日本唯一の金メダルは、嬉しい知らせであった。他にもスノーボードの十五歳の平野歩夢選手、ジャンプのレジェンド(伝説)男四十一歳の葛西紀明選手、ノルヂィック複合の渡部暁斗選手、スノーボード大回転の竹内智香選手の銀メダルと受賞の知らせは続いた。
今回は、前回のバンクーバー大会よりメダル獲得数も多く、何とか日本の力を復活させたといえよう。金メダルの呼び声が高かった女子ジャンプ、女子フィギュア、スピードスケートなどはメダル獲得とはならなかった。
オリンピックは独特の雰囲気であるという。魔物がいるともいわれる。それでも感動、感激を与えた選手は少なくない。
選手の感想を聞いていると、現代の世相の変化が読み取れて興味深かった。
違和感を覚えた「楽しむ」という言葉が、かつての「頑張る」という言葉の意味になってきているように感じる。特に若い選手にその印象をもった。
その一方で、「感謝の気持ち」「恩返し」のつもりでのぞんだという日本人らしいコメントも多かった。個人をアピールするよりも、周りのサポートに感謝する、恩返しをするというのは、日本人の伝統的な精神である。そんな日本人のうるわしい心を見ることが出来たことがメダル獲得より大きな収穫であったと思う。ソチ五輪は日本人の心、日本文化について思いを巡らすものとなったのは私ひとりではなかろう。
ソチの五輪について加地伸行(立命館大学フェロー)さんは、「日本的ともいうべき内容が共通している」と指摘している(産経新聞「正論」平成二十六年二月二十四日)。
まず第一は、〈いろんな人の支えがあり〉その支えてくれた人のため、家族のために闘ったと述べていた。あるいは、〈先輩の苦労のおかげ〉と、先輩たちが開いてきた道への敬意のことば、さらには〈仲間みんなで力を合わせてここまでくることができた〉という団結のことばが発せられていた。そこには一貫して自分以外の人々への感謝や謙虚さがあった。それも自然な感じであった
これらの態度について次のように分析している。
日本選手のそうした感覚、またそれに共鳴する日本人一般の感覚は、個人の能力を第一とする個人主義のそれではなくて、集団性・共同性を最重要視する家族主義のそれではなかろうか。
さらに踏み込んで言えば、個人主義なる欧米流の在りかたは、遠くは狩猟民族の能力主義の発展した形であり、家族主義という東北アジアの在りかたは、農耕民族の共同体生活感覚の発達した形であると、私は思っている。
農耕民族特有の共同体生活の感覚、つまり「日本の心」を基礎にした政策こそこれからは必要であることを加地さんは主張されている。ソチ五輪に「再生」の力を加地さんは見たのである。
日本は自然に恵まれ、四季の移り変わりは日本人の美しい心をはぐくんできた。しかし、この自然は、時には猛威をふるうこともある。ソチ五輪開催中には、日本では記録的な大雪にみまわれた。
オリンピック放送の裏で、国内の大雪情報がおろそかになっていたのではないかと思う。
先月の関東甲信東北を襲った記録的な大雪は各地に甚大な被害をもたらした。交通網の寸断、集落の孤立など影響は各方面に及んだ。あらためて自然の猛威に考えさせられた。
二月十四日の降りはじめから一五日まで甲府市で一一四センチ、これはこれまでの最高記録の二倍以上という、山梨県富士河口湖町で一四三センチ、埼玉県秩父市で九八センチを記録している。長野県軽井沢町の国道一八号では車両四〇〇台が立ち往生した。停電や孤立した地区が各所に発生した。雪崩、雪下しの事故が報告されている。
雨にしても、雪にしても降らないといけない。しかし、異状気象によって降りすぎるのも困る。
豪雪について想い出す。
昭和三十八年(一九六三)の豪雪。数日断続的に雪が降り続いた。
私は小学生だった。当時私は県北で暮らしていた。この雪で学校は休校となった。
雪下しを行ったが、その雪は一階の軒先まで埋まり積っていた。一階は昼でも闇い。家が雪の重みできしみ、部屋の戸が開けにくくなるなど生活に支障がでたことを思い出す。
道路のわきには高い雪の壁ができている。除雪が間に合わない。車はのろのろ運転。
とうとう広島県山県郡芸北地区では孤立する集落がでてくる。この救援のためのヘリコプターが上空を飛んでいく。何度となく飛び、孤立地区に食料を落下したときいた。
積雪の多い中で子供らは、雪遊びに興じていた。カマクラなどは、雪の量が少ないとできない。この時とばかりに、カマクラを掘り、その中でひとときを過ごして楽しんだ。
大人は雪下しに余念がなかった。
ニュースでは雪で家屋が押しつぶされたなどと報道していた。雪は四月のはじめまで残っていた。このいわゆる「三八豪雪」は、山間地区の人が都市部へと出るキッカケをつくった。自然はいつ災禍をもたらすかわからない。それと共存共生することこそ必要である。
「春の来ない冬はない」。春はもうすぐそこに来ている。
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