住吉神社

月刊 「すみよし」

『倭しうるわしー「みどりの日」に思う』
 照沼 好文 

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく

青垣(あおがき) 山隱(やまごも)れる 倭しうるはし

この歌謡は、倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)の「思(くにし)国歌(のひうた)」として『古事記』中巻に所載している。歌意は「大和はすぐれた国だ。重疊している青垣のような山の内に隱っている大和は美しい」(倉野憲司氏校註『古事記』補註七四、参照)。このように、すでに古代人もうつそうと緑に覆われた大和の国、いな日本の国土、森林を讃美している。おそらく、「緑化の父」といわれ、林学者であった徳川宗敬翁(元神宮大宮司・神社本庁総理)も、古代人が讃美したような国土、森林つくりに生涯をかけたのであろう。また、昭和天皇が戦後の荒廃した国土の緑化への思召をもって、全国各県の植樹祭に行幸あそばされた折には、徳川翁は必ず陛下のお側近くで植樹に奉仕されていた。

さて、徳川翁には国土緑化に関するたくさんの業績を残されているが、国民の祝祭日「みどりの日」制定、「緑と水の森林基金」設立等も翁の大きな業績である。とくに、昨年までその「みどりの日」は、緑に対する昭和天皇の御遺徳を偲び、先帝の誕生日を国民の祝祭日として制定されていた。その「みどりの日」は、一昨年より五月四日に変更され、先帝の誕生日四月二十九日が「昭和の日」と改ったが、昭和天皇、みどりの日、徳川翁との間には今日の緑化推進に深い因縁が感じられる。

ところで、こんにち私たちが日常の生活のなかでも、普通に使われている「緑化」の語について、これは古い言葉ではなく、新造語であることを指摘されて、「緑化」の語を調べている。まず、国立国会図書を煩わして調べたところ、「正統的な漢和辞典類、例えば諸橋氏の漢和大辞典その他広辞林、大字典、辞苑、新字鑑などには、『緑化』という言葉は見当らない。また言海にも出て来ないが、昭和三十年に至って、広辞苑の初版に初めて見出され、その辺で緑化なる語彙が一般に定着しはじめたことになるようである。もちろん中国の代表的な辞典である康熙辞典や辞源などにも出て来ないし、一九六八年中国文化研究所の中文大辞典に出ていない。ただ富山房の昭和六年版の大英和辞典Greeningの訳中に「緑化」という訳語があり、これが初見である。(グリーン・エージ、昭四九・一月号)と興味ある調査を発表されている。

だが、これは単なる字義の解釈で、いま徳川翁らが主張し期待している緑化の内容とはいささか違っているように思うと述べたうえで、漸く最近になって翁たちが考えている「緑化」という言葉の内容を伝える辞典が出て来るようになったと。そして、徳川翁は「かような用語の経過からみると、その用語と緑化思想やその実施との時間的関連がわかるような気がする」(同上)と述懐されている。

結局、「緑化運動の本質は建全な国土の保持増進にあるのであって、日本にただ緑の美服を装わせればそれで事足りるというものではない」と喝破された徳川翁の言葉には、真に傾聴すべきものがある。

 

『松江のホーランエンヤ』
風呂鞏

日本三大船神事の一つ、十二年に一度の絢爛豪華な大船行列である“ホーランエンヤ”(正式には松江「城山稲荷神社式年神幸祭」)が、今年は五月十六日(土)から九日間に亘って松江で開催される。

周知の如く、松江城山稲荷の式年神幸祭(ホーランエンヤ)は厳島の管弦祭、大阪の天満天神祭とともに日本の三大船神事の一つに数えられる。【注一】

城山稲荷は、藩主松平直政公が一六三八(寛永十五)年松江に入国した翌年、旧領信州松本から勧請した神社であるが、祭りは一六四八(慶安元)年に起った凶作のため、藩主が五穀豊穣を祈って御神体を阿太加夜神社に渡御したことに始まる。当時は十年毎に行われていたが、のち十二年毎に改められ、大衆の信仰によって三百年以上も伝承されてきた。十六日が渡御祭、二十日が中日祭、二十四日が還御祭となっている。

ホーランエンヤというのは、櫂で漕ぐ伝馬船が囃す櫂歌の囃子から名付けられたとも、また「豊来栄弥」から生じた言葉とも謂われている。

前回のホーランエンヤの渡御祭は、一九九七年五月十七日(土)であった。NHKテレビが「ホーランエンヤ祭」と題して、午前十一時から五十分間当日の模様を実況放映したので、御存知の方もおられよう。

松江観光協会が平成十八年に出版した『松江観光事典』、その中の「ホーランエンヤ」(八四~八五頁)を参照しつつ、祭りの模様を簡略に記すと、次のようになる。

第一日目の渡御祭では、神輿が大橋川まで運ばれ、新造の御神船に移される。鼻曳舟を先頭に、清目船、櫂伝馬船、神器船、神輿船、神能船、両神社氏子船などが連なり、船行列は延々一キロに及ぶ。

五隻の櫂伝馬船(馬潟、矢田、大井、福富、大海崎の五地区)には、囃子手や踊り手が美しい揃いの衣装で乗り込む。なかでも船首に立ち剣櫂をとって舞う歌舞伎衣装の百日かつらの男形と、船尾で紅白の布の采を振って舞うあでやかな女形は、豪華絢爛で、岸に集う観衆の目を惹きつける。

船行列が大橋川から中海、意宇川河口へと進み、夕刻、阿太加夜神社へ着き、御座船から神輿が安置されて、初日の行事が終了する。

翌日から七日間は阿太加夜神社で祭事が営まれ、中日は櫂伝馬船の乗り手も加わって、櫂伝馬船踊りや唄の奉納など、大祭がある。九日目は初日と逆コースで大橋川を遡り、神輿が城山稲荷神社に還御する。この還御祭までがホーランエンヤである。

一八九〇(明治二十三)年八月三十日に松江に着いた小泉八雲は、翌二十四年十一月十五日、熊本の第五高等中学校赴任のため松江を離れた。民俗学的な興味から山陰特有の珍しい習俗など、常に資料収集を怠らなかった八雲であったが、松江滞在は僅か一年三ヶ月であった為に、十二年に一度のこの珍しい祭事「ホーランエンヤ」を、彼自身の目で確かめることは出来なかった。転任の翌年、すなわち、明治二十五年五月十五日にホーランエンヤが開催されていたことを考えると、千載一遇のチャンスを逃したことは、八雲のみならず、彼の麗筆を期待する我々読者にとっても誠に残念至極である。

八雲が心を許した松江時代の友人の一人、松江尋常中学校教頭の西田千太郎は、著名な『西田千太郎日記』に、ホーランエンヤ当日の記録を認めている。そして翌日には、書簡(明治二十五年五月十六日付)で、その模様を熊本の八雲に伝えている(興味深いことに、西田氏はホーランエンヤを“Sohrahenya”と書いている)。【注二】

昨日松江では、何万人もの人出で“稲荷渡し”あるいは通称“ソーラーエンヤ”がありました。あなたもよく知っているあの城山稲荷が、出雲郷にある“阿太加夜神社”通称“芦高稲荷”まで十二年に一度出かけ、そこで一週間滞在します。出雲郷とその近辺の四つの村がそれぞれ一隻づつ船を出し、稲荷を護衛します。それぞれ船をこぐ者は十二人位おりとても華やかな衣装をつけ、若い鼓手と一緒に“ソーラーエンヤ”と歌います。そのかけ声で太鼓をたたき、櫂をこいだりしますが、特に変わっているのは二人の踊り子の動きです。その踊り手はとても変わった飾りをつけ化粧をし、鬘を被っています。一人は舳に立ち装飾のしてある小さな櫂を持ち、もう一人は女装をしてともの方に立ち、両手にはたきのような物を持って、足を固定し上半身を使って動きます。この五隻の舟の後に沢山の舟が綱でつながれて、長い列をつくって従っていきます。その列の真中に神輿を乗せている船があり、その後に神楽船が続きます。(中略)もしあなたがそれを見たら、興味をいだいたに違いありません。(後略)

幼少の頃より幾多の辛酸を舐めてきた八雲は、人との出逢いに関しては僥倖以上の天運に恵まれ、彼自身の人生は豊かなものとなった。松江時代には、中学教頭の西田千太郎と相識り、セツとも結ばれた。城山稲荷のキツネや浦島物語を格別愛していた八雲が、もしも美保神社で「諸手船神事」や「青柴垣神事」を楽しみ、「ホーランエンヤ」も見物していたなら、絶妙「盆おどり」に続く名品が誕生していたに違いない。

 

(注一)広島の管弦祭は巡遊であるが、松江の神幸祭と大阪の天神祭は御幸である。八月の天神祭と七月の管弦祭は夜祭であるが、五月の神幸祭は昼祭である。
(注二)この手紙は英文で書かれている。その英文は『西田千太郎日記』(島根郷土資料刊行会、昭和五十一)三六〇頁から三六一頁に掲載されている。
[島田成矩訳]

バックナンバー
平成27年 1月 2月 3月 4月 5月
平成26年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成25年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成24年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成23年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成22年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成21年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成20年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月