お知らせ
月刊すみよし著者紹介
〜照沼好文氏〜
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
〜風呂 鞏氏〜
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『元 旦 や』
照沼 好文
私は子供の頃、大雪の積もった正月元旦に、隣り近所の子供たちと一緒に、村で一番高い山に登り初日の出を拝んだことが思い出されます。山頂から四方八方を眺望すると、あたり一面が銀世界に覆われ、はるか南の方に純白な筑波山、そしてその先に富士山を見たときの感激は今も忘れられません。その後に、築波山と富士山との民話を知りました。
和銅三(七一三)年に編さんされた『常陸風土記』(ひたちふどき)という地誌に、「古老曰く」という書き出しで、「西の富士山」「東の筑波山」についての民話が記録されていました。大昔、親神さまが、各地方の御子たちを訪問された時のお話です。
親神さまが地方の御子たちを訪ねて、やっと駿河国(静岡県)に聳え立つ富士山に辿りついた時には、日もとっぷり暮れてあたりは暗くなっていました。親神さまは、方々をまわって疲れているうえに、日が暮れてしまっていますので、富士の神さまに今晩一晩のお宿をお願いしました。ところが、富士の神さまは訪ねてきた親神さまに言葉も荒々しく、「今日は新嘗(にいなめ)の祭りの日で、今晩は家内中物忌みしています。こんな事情で、お宿をするわけにはいきませんので、お退(ひ)きとりください」と申しました。その言葉をお聞きになった親神さまは、切角此処まで訪ねてきて、一夜の宿を頼んだにもかかわらず、断られてしまいましたので、旅の疲れと情けない思いで泪を流しながら、自分の思いを富士の神さまに告げました。「物忌みであっても、どんな心で親の私を泊めないのですか。こんなことなら、これから先、この山を冬だけでなく、春夏秋冬一年中雪で覆い、人々がお供物を持って登れなくしましょう。」と仰せになって、少しご立腹になり、悲しいお姿で帰ってゆかれました。
それから、親神さまは東へ向い、関東平野でいちばん高い山筑波山に登って行きました。やっと、筑波の山に辿りつき筑波の神さまにお会いして、これまでのことを話されました。そして、今晩一夜ここに泊めてくれるように頼みました。筑波の神さまは快く「今夜は新嘗の祭りの物忌みですが、是非此処にお泊まりください」と、親神さまを室内に招き入れました。早速、筑波の神さまは、食物や飲物を饌案に盛り、恭々しく親神さまに供えました。
その時、親神さまは非常にお喜びになって、こんな御歌をお唱いになりました。
愛しきかも我胤、巍きかも神宮、天地
と並斉しく、月日とおなじく、人民、つ
どひよろこび、飲食富豊かに、代代、絶
ゆることなく、日日に弥や栄えて、千秋
万歳、遊楽しみ、窮らじ、
この筑波山は西の峯男体山、東の峯女体山の二峯に分れて、天高く聳えています。男体の峯は嶮(けわ)しく、女体の峯は磐石(いわ)山で、冷い清らかな泉水が絶えません。
このたび、秀峯富士山は国の史蹟に指定されました。その富士山も、正月元旦にみる富士山は、普段と違って一層威厳を感じ、崇高に感じます。明治の俳人山内鳴雪は元旦の句に、日本を象徴する国の宝として、万世一系の天子さまと、八面玲瓏(はちめんれいろう)の秀峯富士を詠み、聖寿の万歳と国家の弥栄を祈っています。
元旦や一系の天子不二の山 鳴雪
『神々のすがた』
風呂鞏
山田太一脚本NHKテレビドラマ『日本の面影』(ジョージ・チャキリス/壇ふみ主演)が、一九八四年に放映された。第二回向田邦子賞に輝いたが、この作品ほど小泉八雲の名とその人物像を日本国内に広めたものはない。八〇分ずつを四回に分けて放映された大作で、まさに空前絶後の傑作であった。
ドラマ『日本の面影』は、八雲の日本における晩年の十四年間に焦点を当てつつも、第一回目のタイトル「ニューオーリンズから」が示す如く、八雲が来日前、ジャズで有名なアメリカ南部の都市、ニューオーリンズで新聞記者をしていた時からストーリーが始まる。
小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーン(一八五〇‐一九〇四)は、明治二十三(一八九〇)年四月四日の早暁、憧れの日本に到着した。実はハーンが来日するきっかけとなったのは、一八八四年末からニューオーリンズで開催された万国産業博覧会(注一)であった。
『日本の面影』の放映が、ニューオーリンズ万国博のちょうど一〇〇年後であることには、シナリオライター山田太一氏の特別の思いがある。氏は次のように語っている。
ラフカディオ・ハーンは、明治以降の体制を支えた近代主義・科学主義・合理主義みたいなものを否定する側と言いますか、そういうものの悪い部分ばかりに眼がいったような人だったんですね。ですから、ハーンを取り上げることによって、逆に「明治が切り捨てた部分」に対して光を当てることができるのではないかと思ったわけです。
このニューオーリンズ万国博に東洋から参加したのは日本だけであった。短期間の準備のため、教育関係に絞られた展示であったが、ハーンは憧れの日本からの出品に大きな喜びを得た。「アーティスティック・センス」を動かされたハーンは、会期中、責任者の服部一三に連日の如く質問を重ね、意欲的な取材をもとに数編の記事を書いている。
そして何よりも特筆大書すべきは、この時の『古事記』との出会いである。チェンバレン英訳の『古事記』が、『日本アジア協会紀要』の第十巻別冊として、既に一八八二年に刊行されていたのである。富山大学ヘルン文庫を調べると、ハーンは来日後横浜で、改めて英訳『古事記』を購入している。その後チェンバレンとの交際を始め、出雲に赴任したことや、生涯最後の作品『日本ー一つの試論』(注二)で、イザナミを呼び戻すため、イザナギが黄泉の国へ行くくだりを詳しく書いていることなどを考慮すれば、この書物の果たした役割は今更云々するまでもなかろう。
ところで、現存する日本最古の歴史書『古事記』は和銅五(七一二)年に完成したと言われている。間もなく編纂から一三〇〇年を迎えるが、それを記念して、『古事記』の舞台の一つ島根で、平成二十二年度秋の企画展として「神々のすがた」展が開催された。ご存じの如く、島根県の十月は「神在月」、八百万の神々が集う時期に合わせたものである。
島根県立古代出雲歴史博物館・島根県立石見美術館の連携事業として開催されたが、出雲では、「神々のすがた―古代から水木しげるまで」(十月八日〜十一月二十八日)、石見では、「神々のすがた―古事記と近代美術」(九月十七日〜十一月七日)であった。特に後者、益田市のグラントワにある県立石見美術館での企画展については、十月二日から六回に亘って、中国新聞紙上で展示作品の中から六点を紹介する記事(解説は真住貴子学芸グループ課長)が載ったので、直接足を運ばれたり、関心を持たれた方も多いと思う(注三)。
言葉で伝わる神話を視覚化した作品(日本画、洋画、版画、彫刻、マンガ、映像)が、古代出雲歴史博物館では一四七点、石見美術館では九〇点も展示されており、見て回るだけで数時間を要し、立派な図録も整っているので、ここで各展示品の解説をする愚は避ける。
古事記が描かれ始めるのは明治以降だそうだが、日本画にしろ洋画にしろ、勿論彫刻でも、古事記の名場面―「スサノオのオロチ退治」、「日本武尊」、「天の岩戸」など―を芸術家達が如何に想像力を働かせて視覚化したのかを確かめる喜び、じっくり味わえる時間が持てたことだけは事実である。美術を通して古事記を読むというか、芸術家と自分の想像力を戦わせながら、たっぷりと神話世界に浸れた人も多かったに違いない。
図録解説などに拠ると、戦後から六十五年、教科書から姿を消していた記紀神話は、今年の教科書からヤマタノオロチと因幡の白兎が掲載されることになったそうで、慶ばしい。
三浦祐之著『古事記講義』(文春文庫)には、“神話”について次の記述がある。
神話は、人が、大地やそれをとり囲む異界や自然、あるいは神も魔物も含めた生きるものすべてとの関係を、始源の時にさかのぼり、そこに生じた出来事として語ろうとします。それによって、今、ここに生きることが保証され、それが限りない未来をも約束することで、共同体や国家を揺るぎなく存在させます。神話というのは、古代の人々にとって、法律であり道徳であり歴史であり哲学でした。そしてまた、心を豊かにする文学でもありました。だからこそ、人が人であるために神話は語り継がれなくてはならなかったのです。
卓論である。神話を通してこそ、我々は日本国民としてのアイデンティティが確信できる。幼き日、小学校の教科書にあった(と記憶する)神武天皇の弓に鵄(とび)が飛来する場面などを思い出しながら、両展示会場で買い求めた図録二冊を傍らに置き、今年は存分に神話の世界に浸り、神々と対話してみたい、と夢を膨らませている。
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