住吉神社

月刊 「すみよし」

『第十一代広島県知事服部一三』
風呂鞏

広島市中区にある中央公園(広島城の西)に、広島県出身で初の首相となった加藤友三郎(一八六一―一九二三)の銅像が復元建立されている。当初は比治山公園(南区)にあったが、没後八十五年を記念して新設されたものである。

明治三七年(一九〇四)に起こった日露戦争で連合艦隊を指揮して我が国を勝利に導き、その後のワシントン海軍軍縮会議で首席全権として参加し、軍部の猛反対を押し切って軍縮を進めたのが、人も知る第二十四代内閣総理大臣加藤友三郎である。

加藤内閣のお蔭で、大幅に削減された軍縮予算が文教費に回ることとなり、旧制広島高等学校も誕生することとなった。軍事面のみならず、こうした教育面での加藤の功績にもっと目を向けるべきであると、加藤友三郎顕彰会理事の田辺良平氏は指摘する。(中国新聞夕刊「でるた」参照、平成二十五年十一月十三日付)

加藤は首相就任から一年二か月後の大正十二年八月、大腸癌で死去した。加藤の国家を想う熱き心とその信念を高く評価し、その死を悼んで、「たれもみなそしらはそしれいや高き 君が功は知るものそしる」(「雲嶺歌集」より)という和歌を詠んだ御仁がいる。添え書きに“加藤総理大臣の薨去を聞きて”とある。

この歌の作者こそ服部一三(一八五一―一九二九)である。ラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲の生涯を知る者にとっては真っ先に名前の浮かぶ人物である。短期間であったが、かつて広島県知事(一八九八年七月二八日〜十二月十八日)(注一)を務めていた記憶から、已まれぬ心情をかかる追頌に吐露したのであろうか。

尊皇攘夷で知られる長州藩出身の服部一三は、晩年の兵庫県知事時代には中央より所謂「煙たがられる」傾きさえあった。原敬氏の如きも「服部知事は県の話はせずに、国の話ばかりする」と笑って語られたと言うことである。兵庫県知事でありながらしかも常に念頭にあるは国家のこと、皇室の御事であったことが、服部翁顕彰会が昭和十八年に出した『服部一三翁景傳』に載っている。服部翁の面目躍如といったところだが、常に国家のことを念頭に生きる政治家としての理想像を加藤友三郎に見ていたと言えなくもない。

さて、筆者は平成二十三年六月号の『すみよし』に「服部一三と明治三陸地震津波」を寄稿した。ご承知のように、ハーンは一八八四年のニューオーリンズ万博で服部と出遭った。来日後は服部の善意で松江の中学校に就職できた。ハーンはこのことを大変感謝しており、驚くなかれ、後年早稲田大学に提出した自筆の履歴書の中に、服部一三への言及が二か所も記されているのである。

さらに、前回と同じ内容を繰り返すようで恐縮だが、服部は明治二四年四月から岩手県を初めとして、広島、長崎、兵庫と県知事を歴任した。そして岩手県知事在任中の明治二九年六月に明治三陸地震津波が発生したのである。

ハーン来日第四作目『仏の畠の落穂』(一八九七)の巻頭を飾る「生き神様」は、安政元年に和歌山を襲った大津波の際に流民救助に尽力した濱口梧陵の事跡に取材した作品だが、執筆のきっかけは“明治三陸地震津波”であった。服部とハーンとは“津波”をキーワードとしても奇縁を共有していたのである。

こうした事情を勘案してか、山田太一のNHKテレビドラマ「日本の面影」においても、ニューオーリンズから始まるドラマ全体が“服部の声”という語りを通して進行するように配慮されている。ハーンの人生における服部一三との絆はかくも計り知れぬほど濃い。

県知事の方に話を戻す。先に挙げた『服部一三翁景傳』が神戸市の服部翁顕彰会から出版されていることからも推察されるように、県知事としての服部は兵庫県知事(一九〇〇−一九一六)としての任期が最も長く、神戸港の拡張などその間の業績も顕著だ。

広島県知事になった経緯に関しては詳しいことはわからぬが、『日本の歴代知事』に拠ると、三陸地震津波の後始末が終わってほっとしている所へ、時の隈板内閣から呼び出され、大隈首相から「君は八年間動かぬと言っているそうだが、その約束の八年も過ぎた。広島の県会が腐敗して手が付けられんから行ってくれ」と言われ、広島県への転任を承諾したのが事実であるようだ。

ところが、広島県知事としての任期は前述の如く、明治三十一年七月から十二月までと、極めて短期間であった。当時は中央政府の勝手な意向でめまぐるしく更迭が続いたらしい。例えば、明治四年十一月十五日、初代広島県知事(参事)河野敏鎌は福井県の千本久信権参事と交代を命じられた。千本が広島へ赴任の途中再び福井県へ呼び戻されたので、河野も再び三代知事の職に就くことになった。千本は辞令上でたった十日の最短記録を作っている。このような例は当時珍しくなかったのである。

県議会史によると、服部知事は通常県会に一度だけ臨み、開会・閉会でも形どおりの挨拶で終った。知事としてもやる気が起こらなかっただろうし、迷惑を受けたのは県民である、と前掲の『日本の歴代知事』は述べる。服部は旧長州藩の士族であるが、士族→政治家としてよりも、学者→教育官僚としての印象の方が大きい存在だ。広島在任中、広島県商業学校(後に広島県尾道学校と改称)を設立するなどの治績はあるが、服部の専門である教育行政に携わる時間がもっと欲しかったであろう。服部は僅か五カ月の職務を終えるや否や、若き日遊学した長崎県知事となって広島を去って行った。

ハーンが大恩人と仰ぐ服部一三については、目下のところ、『服部一三翁景傳』がほぼ唯一の資料といってよい。今後は生誕地の『吉敷村史』や『山口市史』なども参照しながら、服部一三の顕彰を続けて行きたい。

(注一)「県知事」という名称が定着したのは、“広島の父”と呼ばれ、宇品港築港で有名な六代目知事・千田貞暁(一八三六−一九〇八)からである。それ以前は、参事、権参事、権令、令、県令などと呼ばれていた。

歌 会 始
宮司 森脇宗彦

先月十五日皇居・宮殿松の間で、新春恒例の歌会始の儀が行われた。

今年のお題は「静」である。

天皇陛下御製

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

天皇陛下が昨年十月水俣市(熊本県)で開催された全国豊かな海づくり大会に御臨席になり、「水俣病慰霊の碑」に供花された際に、目の前に広がっている海の情景を詠まれたものであるという。

戦後の高度経済成長は、日本に空前の繁栄をもたらせた。しかし、その光の一方、陰である、「負の部分」として公害が発生した。国も経済優先で公害対策は遅れをとった。その犠牲者のひとつが水俣病であろう。有明海の魚を食べた人たちが、水銀による特異の病気にかかった。それを水俣病といった。その犠牲者の慰霊の碑に、御魂の慰霊を心から祈られる。その眼前に広がっている「青い」海、しかも「静か」であった。おそらく波も立っていない穏やかな情景であったと想像できる。海本来の自然の姿に、安堵された心情が拝察される。

天皇陛下は平成十一年の歌会始・お題「青」では次の御製を詠まれた。

公害に耐へ来しもみの青葉茂りさやけき空にいよよのびゆく

公害についてはご宸襟を悩まされたことがうかがえる。生物学者でもあられる天皇陛下の自然にたいする心が垣間見られる。

皇后陛下御歌

み遷(うつ)りの近き宮居に仕ふると瞳(ひとみ)静かに娘(こ)は言ひて発つ

このお歌は、伊勢の神宮の式年遷宮で皇后陛下の「娘(こ)」黒田清子(さやか)さまが、臨時祭主を務められ、両陛下に伊勢へ向かわれる御挨拶に、参内された時の様子を詠まれたものという。遷御の儀の一か月まえの昨年九月のことであった。

昨年十月には、伊勢の神宮の式年遷宮の遷御の儀が斎行された。「み遷り」は遷御の儀のことで、遷宮のクライマックスの儀である。神宮の職で最高位は現在祭主である。当然この遷御の儀は祭主が大神様にお仕えされる。現在の祭主は昭和天皇の皇女池田厚子さま。遷御関係の祭儀が連日、長時間つづく。ご高齢に配慮して、今上陛下の元内親王の黒田清子さまが、臨時祭主としてご奉仕されたのである。

「心静かに」「言葉静かに」と詠むでところを「瞳静かに」されたところにこの御歌のこころがあるようにおもえる。御歌の「瞳静かに」は、神のお仕えされる我が子の秘めた清々しさをあらわされているようによみとれる。

天皇陛下の御代として、臨時とはいえ祭主という大役を、恙なく奉仕してほしいとの母親としての思いやりもこの歌には秘められている。

皇后陛下の伊勢の神宮の式年遷宮に関する御歌がある。

浄闇に遷り給ひてやすらけく明けそむるらむ朝としのびぬ

(歌会始「朝」昭和四十九年『皇后陛下御歌集『瀬音』)。

第六十回の式年遷宮の時の歌である。

「浄闇」とは「清らかな闇」で、神宮の重要な祭儀は夜中に行われる。その夜の闇を「浄闇」という言葉を使用する。神宮など夜の祭儀に独特の言葉である。「開けそむるらむ」とは遷御後の最初の夜明けを言っている。昨日までの朝とは異なったもので、天照大神のよみがえりを感得した心境をよまれているともおもえる。

秋草の園生(そのふ)に虫の声満ちてみ遷りの刻(とき)次第に近し

(「御遷宮の夜半に」平成五年(同前掲)

このお歌は第六十一回の式年遷宮の時のものである。

神宮で斎行される遷御の儀の時刻をお待ちになっている間に、秋の虫の声だけが聞こえてくる。夜になったことを「虫の満ちて」と表現されている。やがて遷御の時刻にあわせて、天皇陛下は伊勢の神宮を遥に拝まれるのである。遷宮は「皇室第一の重儀」といわれている。

今年の歌会始の歌には、皇族方の御歌の中には、宮中祭祀、伊勢の式年遷宮、神社参拝等のときのお気持ちを詠われたものもみられる。

皇太子殿下

御社の静けき中に聞え来る歌声ゆかし新嘗の祭

「御社」とは宮中にある社であり、そこで斎行される新嘗祭(にいなめさい)で奏される神楽の音色を聴かれたときの心境をうたわれている。十一月に行われる新嘗祭は、宮中祭祀の中でも最も重要な祭儀で、天皇陛下自ら奉仕される親祭である。その年の新穀を神々にささげ、それを自らもいただかれ天皇の霊威を更新されるという。その祭儀内容は秘儀となっている。

今上陛下は、ことのほか祭祀に熱心であられると聞く。次の天皇になられる皇太子殿下も、その自覚をもたれての御歌ではないかとおもう。順徳天皇の『禁秘抄』の冒頭の「禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす」との教えが厳格に守られていることをこの御歌から窺える。

歌会始は日本の伝統を受け継いでいるものである。歌の道は、日本の道でもある。和歌、短歌をとおして日本の文化伝統を見直したいものである。

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