住吉神社

月刊 「すみよし」

『住吉の松』ー広島のメッセージーを読むー
照沼 好文 

既に、前号『すみよし』(九月号)で紹介されたが、当住吉神社宮司森脇宗彦先生が『住吉神社の松―広島からのメッセージ』と題した図書を、今回出版された(B5版、全一七八頁。平成二〇年八月六日・千年社刊)。

さて、著者は今回本書を出版する動機について、本書の「はしがき」のなかで、「古来、神道は『言挙(ことあ)げしない』ことを伝統的に美風としている。昔は、それでよかった。日本の生活の中に『日本のしきたり』がどっかりと根をおろしていた。その中心には、神道のこころが生きていた。あえて言挙げの必要がなかった。」しかし、現在は「神社神道について言挙げしないではすまされない時代になってきている。時代が激変し、生活の中の『日本のしきたり』である神道の土台が崩壊してきている。…日本の伝統精神、神道のこころは日に日に失われていくのが現状だ」と著者は、日本の伝統文化、習俗、そしてその根源である神道のこころの失われていく現状を見兼ねて、敢えて本書を世に問うに至ったという。つまり、「本書は、神明奉仕の傍ら、私の思いを綴ったものだ。神道では、教化は第二の祭りといわれる。この拙者も祭りの展開のひとつで、祭りをより現代的に展開させたものである」と著者は、本書を公開した意図を述べている。

ここで、本書の内容構成をみると、本書の内容は、全四〇章から成り、ここに所載した文章は主として、昭和五十三年二月に創刊した当社報月刊『すみよし』に執筆したエッセイを中心に編集しているが、最も古い文章で三十年余り前の学生時代のものもあり、「改めて原稿を整理していくと、幽冥境を異にした恩師、知人も少なくないことに驚かされる。…一見色あせているかもしれないが、その内容はその時代を写し、時代をこえて継承され生き続ける日本の心、神社神道のこころ、日本歴史伝統の心の一端と汲み取って」頂ければと、著者は謙虚に語っている。従って、本書に収録されている文章を、一つ一つを読んでいくと、その時々の問題に対して神道人としての立場から正論を披瀝されていると同時に、とくに他宗教と神社神道とにおける自然観の相違から、古来継承してきた神道のすぐれた点を指摘しているなど、傾聴すべき文章が多い。

たとえば、第二一章の『神と森―緑―』(八八頁)をみると、「ヨーロッパの教会は森がなくても成立するが、日本の神社では森がないと何かものたりなさを感じる。神社の鎮守の森には心がやすらぐ。ここに東西の自然観の違いが見られる」と。そして、戦後の高度成長の自然破壊の「開発という名の下で、美しい緑の国土は失われると同時に、日本人の美しい心の荒廃をもたらした。…日本人は、キリスト教のように自然と対決するのではなく、森羅万象に神が宿ると信じてきた。…森のあるところに神が宿ると信じた。…自然を敬い、畏怖するという信仰など原始宗教で未開な宗教などといっていたが、実は人間にとっては必要なものだった。人間らしく生きるのに理にかなった信仰なのだ」と述べている。『日本語に誇りを』(五八頁)の文章は、フランス人やドイツ人などが自国語を大切にして誇りをもっていることなど、とくに若い方々に読んで頂きたい文章が見える。

ところで、本書の表題『住吉の松』は、歌枕ではなく、爆心地に近い当神社境内で、ただ一本原爆の災禍に遭いながら生存した、数少ない被爆の松に由来するという。また、この「住吉の松」を訪ねる人は、原爆を体験した人たちばかりでなく、最近は平和学習の一つとして、爆心地の原爆ドーム、平和公園、原爆資料館などを見学し、地図とノートを手に「住吉の松」を、先生に引率された小・中・高校生が訪ねてくる。平和運動家もこの松を訪ねてくるが、みな神殿の前で頭をさげることもなく、通り過ごして被爆松を探すという。

そこで、著者はつぎのように訴えている。

「住吉の松」の緑は、エセ平和ではなく、真の平和を訴えているように思える。その平和への第一歩は祈りではないかと思う。祈りなくして真の平和は生まれてこない。広島から平和を訴える第一歩は、死没者への慰霊からでなくてはならない。そのためには、やはり宗教者が手をかさねばならない。

さらに、著者はとくに、神道人の奮起を促している。

それに比して、神道人は平和の問題、特に核についての考えは不明確だ。敬神生活の綱領にある「大御心をいただいてむつぎ和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること」を更に具体化していかねばならない問題ではなかろうか。

この著者は単に神道人に対する訴えにとどまらず、この混沌とした社会の中で、真に日本の将来、世界の平和を心から願う人びとへの叫びではあるまいか。このことが『住吉の松』、広島からのメッセージという書の真の願いと思う。 

 

『日本人の微笑』
風呂鞏

平成十二(二〇〇〇)年、小泉八雲生誕一五〇周年を記念して、ここ広島の地で発足した「ラフカディオ・ハーンの会」は、毎月一回の例会を重ねて、愈々今年十二月を以って、一〇〇回目を祝うこととなった。八年半の間、銭本健二元八雲会々長など、著名人の講演を頂戴したり、八雲の著作を英文(翻訳も参照)で味わう学習も行ってきた。最晩年の作品『日本―ひとつの解釈』(二十一章)を卒業し、目下、来日第一作『日本瞥見記』上下(全二十七章)の第二十六章目「日本人の微笑」まで読み進めてきている。

今回はこの「日本人の微笑」について少し触れてみたい。八雲独特の鋭い観察眼で、日本人の意識構造、心の分析に正面から取り組んだ、日本文化論の傑作と評される作品である。この論考によって、八雲の名声は一段と高まった。「ジャパニーズ・スマイル」なるものの正体を世界に知らしめた八雲の功績は計り知れない。

最近のグローバル化の中で、日本人の感情表現は一変したと言われる。自分の気持ちを正直かつストレートに表出することが人間として正しい姿だとまで考えられる社会になっている。甲子園球児たちの喜怒哀楽の姿に象徴されるように、悲しい時は人目も憚らず平気で涙を流し、泣き顔を見せる。一方嬉しい時には大袈裟なくらい呵呵大笑する。しかし、吾が子を失った悲しみに到底耐えられぬのに、他人に見苦しい振る舞いを見せることを潔しとせず、震えながらも膝の上の手巾を緊く握り締め、態と笑顔を保持し続ける母親、芥川龍之介の名品「手巾(ハンケチ)」に登場するご婦人のような例もある。こうした日本人古来のDNAは、今もなお脈々と生き続けているのではあるまいか。

フランスの哲学者ベルグソンはその名著『笑い』の中で、笑いは「生命ある人間の心の中に機械的なこわばりが生じた結果」であるとしているし、ドイツの哲学者カントは強い緊張が急に緩んだときに笑いが起こると主張している。

池田弥三郎は『ユーモアのすすめ』(文藝春秋)の中で、日本人は恐怖の最高潮で笑うし、また悲嘆の絶頂においても笑う、と指摘している。と同時に、日本人自身が自分に納得できるような説明は出来ないだろうとも述べている。

八雲は異なる民族間の相互理解が如何に難しいか。他人の習慣や動機を判断する場合、自分の習慣や動機で他を推し量るのは、無理からぬ事ではあるけれど、同時にそれは、実に誤り易いものであると述べた後で、いくつかの実例をあげている。それらの中でも特に印象深いのは横浜に住む外国婦人の話である。

ある英国人の家庭で使っていた日本人の女中が、二、三日出たままで姿を見せなかった。やがて戻って来て主婦の前へ出たので、何処へ行っていたのかと尋ねると、にこにこ笑顔になって、実は亭主の葬式から帰って来たと答えたそうである。さらに彼女は「お骨箱」を見せて、「これ亭主で御座います」といって、笑った、という。

この使用人の態度・振る舞いは、英国夫人に甚だしい誤解を懐かせ、冷酷無情なものとして敵意に満ちた非難を生んだであろう。しかし、日本人の微笑は長い歳月をかけて丹念に作り上げられた礼儀作法の一つなのである。それはまた沈黙の言語なのである。初子を亡くした母親が、その子の葬式の際如何ほど激しく泣いたにしても、もしその母親が奉公中の身だったら、恐らく彼女は自分の不幸を主人に語る時は微笑をたたえて語るだろうと思う。その笑いは、自己放棄の極点までいった、実に慇懃なものなのである。つまりそれは、「あなた様は、このことをとんだ不幸せと思し召すか存じませんが、どうかこんなつまらぬことにお心を煩わさないで頂きます。一応耳に入れておかなければと存じまして、失礼をも省みずにこんな事を申し上げて、本当に相済みませんでした。どうかお気に障えられませんように。」という内容を含んでいる。日本人の微笑にたいする八雲の謎解きはこのように同情的とも取れる解釈となっているのである。

八雲はパーシヴァル・ローエルの『極東の魂』を読み、「素晴らしい!! 本の中の本!!」と感激して、一八九〇(明治二三)年四月、日本にやって来た。ローエルは日本文化の特性を“つぎ木文化”と規定した。想像力が欠如しているため、もっぱら模倣をこととする、というわけである。彼によって極東の民族の魂は「没個性」というレッテルを貼られてしまった。

ところが、八雲の「日本人の微笑」はローエルへの反論として書かれたものでもある。八雲によると、日本文化のマイナスとされる自我や個性の欠如こそが、日本人の性格の魅力的な美点となる。自己否定ゆえの神々しさが日本人の微笑であり、これこそまさに義務感、古風な忍耐力、意志的な自己抑制の極みとなっているのである。

ジュネーブ滞在中にこの「日本人の微笑」を原文で読んだ柳田國男は、一九四六年に『笑いの本願』を上梓した。ただし柳田は八雲の女中に対する思い遣りある弁護に共感しつつも、八雲もまた「笑い」と「ホホエミ」を混同した点については外国婦人と同じ誤解をしたと指摘している。

尿検査で大麻に陽性反応を示し解雇されても、処分撤回を求めて法的手段に訴えると開き直る外国出身の力士、それに比べて、日本人だけの責任ではないイタリアの大聖堂の落書きに、わざわざ謝罪に出かける日本の女子大生、秋の野に鳴く虫の音を左脳で聞き分け、言語として理解する日本人などなど。例を挙げれば切りが無いが、我々は日本人独特の品性・感性にもっともっと自信を持ち、誇らしく思わなくてはいけない。

ジャパニース・スマイルを以って、日本人は不誠実であると評されることはあったが、自己卑下する必要は毛頭なかったのだ。八雲が明察したように、相手に嫌な想いをさせたくないという日本人の心遣いの表われ、日本文化の類い稀な美点だったのだ。

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