住吉神社

月刊 「すみよし」

『相撲とまつり』
  照沼 好文 

東京・両国国技館で開催の大相撲初場所三日目(一月一二日)に、大関魁皇が幕内勝星八百八勝の新記録という快挙を達成した。その前日、横綱千代の富士(現、九重親方)が持つ八百七勝に並んでいた魁皇関は、関脇千代大海を送り投げて下し、「不滅」と言われた大記録を十九年ぶりに塗り替えたという。(『讀賣新聞』平、二二・一・十三付)一方、千代大海はその翌日、現役力士からの引退を発表した。まさに、これには勝負の世界の明暗を見た思いであったが、神代以来の相撲における「力くらべ」、それに伴なう勝負の原初の姿を感じた思いである。記紀(古事記・日本書紀)の古典によれば、まず出雲の「国譲(くにゆづ)り」の物語の中に、建御雷神(たけみかつちのかみ)と建御名方神(たけみなかたの神)との出雲の伊奈左の浜で「力くらべ」が行われた説話が見える。また、垂仁天皇の言付けで、野見宿禰(のみのすくね―相撲の祖神)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲を取り、当麻蹴速を倒したという物語を述べている。これらの説話のうち、前者には「神占い」の要素、後者には競技本来の要素が見られるというが、なによりもここには相撲の原初の姿がうかがわれる。

ところで、古来「相撲」「力くらべ」の競技には、神事や信仰との深い関係があり、特に民間では農作物の吉凶を占う「神占い」と結びついて行われた。例えば、現在でも全国各地では「神事相撲」「奉納相撲」などが行われているが、目に見えない精霊との相撲の神事「ひとり相撲」や頭屋が幼児をだいて向いあわせ、幼児の泣きで勝負を決めるという古風な神事として、村祭における相撲の例も見られる。しかし、平安時代には宮廷における「相撲節会」(すまいのせちえ)が重要な宮中儀式として定められ、相撲技もまた今日と同様な高度な洗練された内容となっていたといわれているが、元来この節会は豊作祈願の年占いの神事であった。だが、その本来の意味もうすれて時代と共に華麗な娯楽的儀式となり、さらに戦国の戦乱時代における相撲は、武士の武術となって存続している。

それにしても、太平な江戸時代になると、全国各地に職業相撲が起り、特に大阪、京都、江戸などの神社、仏閣の建造、修築等の寄付金を集めるために「勧進相撲」(かんじんずもう)が行われている。そして、元禄時代ごろには土表、番付等の制度ができ、強豪力士の谷風、小野川、雷電などの出現するに至っているが、明治維新後には、梅が谷、常陸山、太刀山、そして大正期の栃木山などの名力士、大力士などの出現が見られ、国技としての相撲の著しい発展がうかがわれる。勿論、今日ではアマチュアの相撲大会も盛んになり、特に靖国神社や明治神宮等の神前に、横綱の土俵入りが奉納されているのは、わが国風として有難いことである。

さて、 相撲と神事との関係で、是非紹介して置きたいのは、「土俵まつり」の伝統的な儀式である。この「土俵まつり」は新たに構築した土俵の地鎮祭で、大相撲の本場所、初日の前日午前中に執り行われる儀式である。古来「片屋開き」とも云い、古代から農村に普及していた相撲に伴なう習俗の五穀豊穣祈願と同時に、豊作を感謝して神前に相撲を奉納する報恩の念と形式とが伝承されている。他方また、力士の無病息災を祈願すると共に、土俵安泰を地の神に祈願する所謂地鎮祭が行われる。まず、土俵の中央に七本の幣(ぬさ)を安置して供物を供える。土俵周辺のたまり席に、相撲協会の役員が列席する。式の祭主は立行司がつとめ、十両格以上の行司二人が脇行司としてこれに従う。いずれも白衣の神官の姿で奉仕する。まず、脇行司のお祓い、そして祭主の祝詞奏上が行われ、 次いで、土俵の四隅に幣を立て神酒をそそぐ。再び祭主の立行司が軍配を手にして中央に座し、相撲の故実と土俵まつりの由来の「片開きの言上」を読み上げる。次に周囲の土俵の俵に神酒をそそぎ、最後に「鎭物」(しづめもの)の「御饌」(みけ)である洗米、塩、するめ、こんぶ、勝栗の五品を紙に包み水引をかけ、土俵中央に埋め地霊の捧物とする。以上で「土俵まつり」は終了するが、土俵の四隅に立てた幣は、場所中春夏秋冬を表わす四色の房(屋外では四本柱)に掲げられる。四季の神々が土俵に神宿りすると古い風習が守られ、またあとの三本は館内の神棚に祀るという。ともあれ、このように「土俵まつり」には、神代ながらの古儀と信仰が、現在もなお継承されている。相撲が国技である所以を改めて認識したしだいである。

 (尚、本稿は主として、池田雅雄氏の相撲に関する著述を参考した。)

 

『広島での「小山内薫展」』
風呂鞏

「小山内薫展―近代演劇の開拓者、自由劇場創立一〇〇周年記念―」が昨年十一月十四日から十二月六日まで四〇日間、広島市中央図書館の二階展示ホールで開催された。縁りの人物の紹介を織り交ぜながら、異才・小山内薫(一八八一 ―一九二八)四十七年の濃密な生涯を辿る企画で、誠にタイミングのよい、充実した展示内容であった。

「新劇の父」としての小山内薫を知る人は寡くあるまい。然し、彼が広島に誕生し、広島との因縁も並々ならぬものがあることを知る人はそう多くないのではあるまいか。会場入り口に置かれたパンフレットに次の文が読める。やや長いが、引用する。

明治四二(一九〇九)年十一月、日本近代演劇の幕開けとなる「自由劇場」の第一回試演が行われました。創立者の一人小山内薫は、明治十四年広島市細工町(現中区大手町)の生まれ。「歌舞伎でも新派でもない新しい演劇」を目指して「自由劇場」を創立し、戯曲の翻訳や演出を通して西洋の近代演劇を精力的に紹介しました。また、後には新劇運動の中心となった「築地小劇場」を立ち上げるなど、日本の演劇史に残した功績から新劇の父と呼ばれています。本展では、著作や写真、自筆資料などを展示し、父小山内建(陸軍軍医)や妹岡田八千代(作家)をはじめゆかりの人物の紹介も交え、小説や戯曲、童話にも広がる作家活動や映画製作にも取り組んだ小山内薫の生涯をたどります。

このパンフレットの説明から分かるように、昨年二〇〇九年は、日本の新劇運動の原点ともいえる築地小劇場が八十五周年を迎えた、その記念すべき年でもあったのである。薫が心血を注いだ築地小劇場は、大正十三年六月十三日から昭和二十年三月十日まで、二〇年九か月間存続したが、東京大空襲により焼失した。左翼色が強かったこともあり、築地小劇場は激動の軌跡を辿ったが、ここで培われた新劇人たちは、戦後よみがえり、今日の新劇の隆盛をもたらしたのである(注一)。

なお、この企画展を記念して、小山内薫出演・総指揮作品「路上の霊魂」(大正十年 松竹キネマのサイレント映画)が、十二月六日(日)、すなわち「小山内薫展」の最終日、中央図書館に隣接する映像文化ライブラリーで上映された。

ところで、薫の父建(医者としての号は玄洋)は、弘化三(一八四八)年青森県弘前市に生まれ、三十三歳のとき、広島鎮台(師団)病院長として赴任して来た。森鴎外の小説『渋江抽斎』にも儒学者・漢方医として登場する人物で、軍医として広島市民から敬愛された(注二)。しかし、明治十八年陸軍病院へ栄転と決った年に急逝、三十八歳の短い生涯を終えた。薫は三歳と七カ月で父に死別。比治山の陸軍墓地に父を葬った後、母に伴われ、東京麹町に移り住んだ。やがて、東京帝国大學学生時代には、恩師小泉八雲との運命的な出会いがあることになる。

筆者は平成十九年十月の『すみよし』(通巻三五五号)に、「比治山の旧陸軍墓地」と題する文を寄稿した。その中で、比治山旧陸軍墓地に今尚偉容を誇る、陸軍一等軍医正小山内建の巨大な墓碑(高さ一五〇センチ、表四十六センチ、側面四十五センチ)を紹介した。また、ラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲は明治三十六年、文科大学学長・井上哲次郎名義で、解雇通知を受け取り、それが学生達の留任運動に発展した。『帝国文学』第拾巻第拾壱(明治二十八年、小泉八雲記念号)で、その経緯を「留任」と題する赤裸々な文章に纏めたのは、ご存知の如く小山内薫なのである。

今回の「小山内薫展」では、八雲との関係を示す資料は少ない。その中で、会場中央にある衝立の「年表」には、“明治三十六年、二十二歳、小泉八雲の留任運動に関わったためか、ラテン語の出席不足のためかで留年”との説明がある。また、『ラフカディオ・ハーン著作集』第十一巻(恒文社、昭和五六)に載っている写真「東京帝国大學講師時代(五〇歳頃)のハーン」がコピーされ、その脇に次の添え書きがある。

小山内は東京帝国大學で英文学概論などの講義を通じて、欧米文学の知識だけでなく、八雲の人間性にも強く刺激を受けた。他の授業にはほとんど出席しなかったが、八雲の講義は一度も欠席をしなかったという。大學二年に進む際の小山内の留年は、八雲の留任運動(後任は夏目漱石)に加わったためと云われる。

小山内が東大で恩師小泉八雲と運命的な出会いをしたことが、彼の西洋戯曲の翻訳や我が国への近代演劇の紹介に繋がり、「自由劇場」や「築地小劇場」の誕生へと発展して行った。そして、「築地小劇場」の広島公演に感激して女優を志したのが、新劇の歴史を生きた名優杉村春子であった、という奇しき因縁もある。

軍医として市民から敬愛された薫の父建(およびその墓)、東大時代に留任運動に加わるほど八雲に心酔した薫、さらに杉村春子など、広島縁りの人物を通して新劇を見つめ直すと、縁遠く感じていた「自由劇場」や「築地小劇場」が、俄かに身近なものとなり、新たな興味が湧いてくるから不思議だ。

小山内薫の次男・宏(軍事評論家)と結婚した、元東大図書館司書官の小山内富子氏に『小山内薫―近代演劇を拓く』(慶応義塾大学出版会)がある。玄洋の墓を広島に訪ね、小山内家および薫の生涯の事跡をつぶさに伝えてくれる名著である。一読されたい。

(注一)銀座文化史学会、第八回「銀座歴史回顧」―「築地小劇場21年の軌跡」参照
(注二)『広島県医師会史』には、「玄洋の治術の妙は人の知る所となり、広島県下の人民にして難病に罹り君の治療を受けて全治せる者多し」と記載されている。

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