住吉神社

月刊 「すみよし」

『小泉八雲と語学教育(三)』
風呂鞏

五月号以来表題の「小泉八雲と語学教育」について書いている。事の起こりは、文科省が今年度からの高等学校学習指導要領改定案で「英語の授業は英語で行うことを基本に」という指針を出したことに始まる。
これに対して、言語教育に対する文科省の判断は曖昧であり、亡国的な早とちりである、と敢えて乱暴な文言も辞さず、警告を発し続けている次第である。

日本人の誇りと自信を深く考えない一般の人の反応は先ず次のようなものであろう。

「英語教育の究極の目的はコミュニケーションであり、自己表現を英語で行える国際人を養成することではないのか。英語の授業を英語で行って、一体何処が悪いのだ。国民の殆どが望んでいる至極当たり前の話ではないか。 英語を日本語で教える今までの教え方の方が間違っていたのだ。反対する輩こそ無知蒙昧の見本ではないのか。この馬鹿者め!!」

五月号では、日本人の心と文化伝承の大切さを尊ぶラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の英作文教育に着目し、六月号では、松江時代「心」の教育を大事にしたハーンの教師像に、彼の作品「英語教師の日記から」を紹介することで触れた。一見語学教育にとって無縁とも思える“想像力”や“共感”が、語学教育を初め“教育”と名の付く営為すべてに於いて、実は大変重要なファクターであることを、ハーンを通して理解出来るのではあるまいか。

ハーンが来日以前既に言語教育への関心があり、ニューオーリンズ時代、言語教育に関する幾つかの論説記事を『タイムズ・デモクラット』紙などに載せていた事実は既に紹介した。その中に「外国語の問題」(一八八五・五・十六)と題する記事がある。外国語学習の有用性を論じた啓蒙的な論説だ(銭本健二「ラフカディオ・ハーンの教育観」参照)。
英国の著述家J・ラスキン(一八一九−一九〇〇)が外国語学習は学者以外には有用でなく、普通の人は外国語を学ぶ必要はないと述べた。外国語学習は時間の浪費であるという、ラスキン氏の意見にハーンが反論して、四つの論拠を提示しているのである。その第一は、外国語が言語芸術のなかで、文章の優美、魅惑、力動感を表わすのに貢献していること、第二には、外国語を知ることで自国語に対する知識が広まり、深くなっていること、三つ目は、人間性とは情の面から捉えれば世界共通であり、外国語を学ぶことで、自国語の固有性に執着することなく、言語の相違を超えた所に立ち現れる共通した価値を求める姿勢に繋がっていること、四つには、人種や言語によって生じる固有の性格や感覚、独特の思考法や表現法から生まれる微妙な色合いを相互に認め合うよう(ハーンの言葉では、「コスモポリタン、すなわち語の最良の意味において最も謙虚な人」)になることである。

ハーンが「耳からの言語教育」を軽んじたことは一度もない。話し言葉は音声による概念の伝達の原初の媒体であり、「タイムズ・デモクラット」紙の「言語学習における目の効用、耳の効用」(一八八五・四・十一)でもその点を詳しく論述している。しかし、文科省主唱の高校における「英語の授業は英語で行うこと」が、先のハーンの記事「外国語の問題」に含まれる外国語学習の有用性を真面目に踏まえたものとは到底思えないのである。

さらにさらに去る五月二十二日、政府の教育再生実行会議は国際化社会における人材育成と大学改革について議論し、小学校で英語を正式教科とすることを柱とする提言案を大筋で了承した。現在小学五、六年で実施している週一回の授業「外国語活動」を、正式な教科に格上げしようとするものである。文科省の悪乗りは留まる処を知らず、まさに“それ行け、ドンドン”。節操も何もあったものではない。本気で日本を滅ぼす気だ。

小学校の英語必修化に関しては、二〇〇六年六月「中国新聞」に載った小池生夫・明海大教授のように、“国際競争に欠かせない”と戦略的な面から諸手を挙げて賛成する御仁もある。が筆者は二〇〇六年五月号の『文芸春秋』に載った中西輝政・京都大学教授の「小学生に英語教育は必要か」や、同じ時期『週刊現代』に『国家の品格』の著者・藤原正彦氏が書いた「小学校の英語必修化は日本を滅ぼす」の方に、より真実味があるとする者である。

「真の国際人とは、しかるべき教養をもち、一人の人間として海外でも尊敬される人物のことです。教養のある人とは自国の文化や伝統、情緒を身に着け、歴史や文学、価値観をよく学んだ人のことです」と藤原氏は述べ、優先すべきは「読み・書き・そろばん(算数)」であって、英語やパソコンではない、と文科省の方針に鋭い矛先を向けている。

ハーンは島根県私立教育会で三回講演を行っている。一八九〇年十月二十六日島根県私立教育会総会で三時間に亘って行った第一回目の講演「想像力の価値」(中村鉄太郎訳を村松真吾氏が現代語訳にしたもの)には、次の文言がある。

そもそも小学校で学科を教える目的は何でしょうか。小学校は決して技術の優れた美術家、工学者、哲学者、医学者その他学者を育てる所ではない。小学校はただ将来これらの学者・技術者が業績を遂げるのに必要な勉強の準備をさせる所に過ぎません。換言すれば、小学校で得た知識は書庫を開く鍵かまたは別途の道具のようなもので、これを利用する方法は使う人の技量次第によるものです。小学校は決して将来の進路を決定づける所ではない。ただ、生徒の脳の奥に芽生えた特性を自覚させるぐらいのことです。

最後にもう一つ。鳥飼玖美子・立教大教授は、英語が堪能な小学生を育てたいなら、自己主張の強い生意気な子供を育てる覚悟が必要と述べる。今までの「先生の云うことを聞け」という指導は、教育ママにとって禁句に変じるのであろうか。

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