住吉神社

月刊 「すみよし」

『和菓の日』
照沼好文

私達が子どもの頃から、何気なく見たり、味わってきたものの中に、素晴らしい日本の伝統文化として、今日まで受継いできたもののあることに気づいた。それは「和菓子」の文化である。

平安時代、仁明天皇嘉祥元(八四八)年六月十六日の祭儀以来、宮中から民間まで「和菓子の日」の行事が行われ、いまも六月十六日を「和菓子の日」として受継いでいる。季語にも、「嘉祥(かしょう)菓子」、「嘉祥喰い」(かしょうぐい)「嘉定喰い」(かじょうくい)などの言葉のあったことを知った。

江戸時代の俳人、一茶の句に、

子のぶんを母いただくや嘉定喰(かじょうく)ひ

一茶の句らしく「嘉定喰い」のユーモラスな一面も窺える。

抑々「嘉祥菓子」の由来は、仁明天皇の承和年代に諸国に旱魃(かんばつ)、疫病が流行して人びとは苦しんだ。そのため、仁明天皇は承和の年号を嘉祥と改元して、その六月十六日に「十六種類」の菓子を神前に供えて、人びとの「疫(やく)を祓い、健康と幸福」を祈願されたことに始まったという。(『続日本後紀』)

また、この行事について、江戸時代の記録などを見れば、

上(将軍家)には嘉定の御祝ひとて、さまざまのつくり果物(くだもの=和菓子)下し給ふ。…世の人嘉定食(かじょうくい)とて、此月立(つきたち)しはじめの日より、今日までの日数(六月十六日)にあてて、小さき銭(ぜに)を数へ、己が心々の物にかへて食(く)うわざせり。…(深沢秋男校註『井関隆子日記』上巻、天保十一年六月十六日の条。勉誠社刊、二一九頁―二二〇頁。)

とあり、江戸時代においても、広く一般庶民の間でも六月十六日には「嘉祥喰い」の行事が行われた。

因みに、前の「井関隆子日記」に見える当時の「つくり果物」即ち「和菓子」には、どんなものがあったのだろうか。同『日記』には、

昔果物といへるはまことの木の実のたぐひにて、今はもてなしにまことの果物もすなれど(使用したけれども)、大方は作り菓子にて、それはた(それもまた)世々を経(へ)にこしままに、其品あまたになりにけり。古き文に見えたる餅(もちひ)のたぐひ、かれ是あれど、結果?餅(かたなわまがりもち=緒を結んだような形にして、油であげた古代の菓子)などのたぐひは今は聞えず。耳なれたるは椿餅(つばきもち)などにやあらむ。…新たに出来たる名どもの中に雅(みやび)たるは、しぐれ、うす桜、みめより、小倉野、などやうの名共かずもなし。桜餅は其葉につつめる匂(にお)ひなつかしく、花の散なむ後のかたみにもなりぬめり。…今は外にも物すめり。(前掲同。天保十一年二月二十六日条、七二頁)

と。これらの和菓子の名から、情趣の豊かさが感じられ、ほんのりと爽やかな雅味さえ伝わってくる。これは日本の四季おりおりの美しい自然と、豊かな暮しの中で育くまれた雅味であると同時に、宮廷の祭儀をはじめ諸国の神々への供物として和菓子の清々しい神韻の味にほかならない。人口にはあまり膾炙(かいしゃ)されてなかった六月十六日の「嘉祥喰い」、所謂「和菓子の日」を後世に伝え、その洗練された伝統文化の風韻を末長く味わってゆきたいものだ。

 

『松江の大谷繞石句碑建設』
風呂鞏

広島市に、小泉八雲を尊崇する者同士の勉強会「広島ラフカディオ・ハーンの会」がある。二〇〇〇年七月に結成され、爾来毎月一回の例会を開いている。最近屡々話題に上る「稲むらの火」の原作である「生き神様」や怪談「耳なし芳一の話」など、ハーンの作品を読み、ハーンから学ぶことを目標にしている。と同時に“広島”に拘り、広島におけるハーン縁りの場所や人物を探り、その顕彰にも鋭意努めている。

広島に在住する者にとって誇らしく、かつ嬉しいことに、東京帝大でハーンから英文学を学び、卒業後広島で教職に就いた人が多い。そうした中に大谷正信(俳号・繞石(ぎょうせき))がいる。大正十三年から昭和七年まで、旧制廣島高等学校の教壇に立ち、幾多の人材を育てた。さらに、臼田亞浪の後を受けて地元中国新聞の俳壇選者も勤めている。

昭和四十八年に「広高創立五十年記念事業」として広島中央公園に「広高の森」建設事業が取り組まれた。その際錦上花を添える事業として大谷繞石の句碑と北島葭江の歌碑が建設された。繞石の句碑に彫られた句は「広島城」の前書に「枝下ろされし 濠端の樹も 東風そめし」である。

本稿とは直接の関係はないが、加藤友三郎の銅像(ワシントン軍縮会議出席の際のフロックコート姿で、高さは等身大の約一・七メートル)がすぐ傍に建っている。加藤は軍部の抵抗を受けながらも国際軍縮を進めた郷土の偉人であり、大正十一(一九二二)年広島県人として初めて総理大臣に就任した。銅像は没後八十五年の平成二〇年八月に完成した。

大谷は幸運にも、松江中学・東京帝大でのハーンの教え子である。明治二〇年九月(一八八七)松江中学に入学した大谷は、三年生から四年生の初めにかけてハーンに教えを受けた。ハーンは「英語教師の日記から」(『日本瞥見記』第十九章)の中で、「私の好きな生徒」の一人に挙げている。また『日本瞥見記』の終章「さようなら」に出ているように、ハーンが松江を去って熊本へ向かう際、中学生を代表して送辞を述べたのは大谷であった。

かなり裕福な家に育った大谷であったが、中学卒業前に父が商売に失敗、学資は家郷から仰がないとの約束で上級学校への入学を許された。京都の第三高等学校へ進み、途中で仙台の第二高等学校に転じ、明治二九年九月、帝国大学文科大学英文科に入学した。奇しくも、大谷はここでまた二年間ハーンの教えを受けることとなるのである。大学ではハーンの日本研究の助手として資料収集に努め、その報酬を学資に充て、卒業できた。一方ハーン晩年の作品には、大谷から得た資料に拠るものが多く、美しい師弟関係が存在した。

大学卒業後の大谷は、松江の老祖母、父母への送金のため、収入の少ない官立でなく給料の高い私立の中学、大学の教師となった。明治四十一年金沢の第四高等学校の教授となり、翌年から二年間イギリスへ留学、大正十三年新設の廣島高等学校の教授になったのである。

広島には大谷繞石の句碑が建立されたが、松江には今まで顕彰碑建設の計画がなかった。昨年末市民有志が、「大谷繞石句碑建立委員会」を設立、生誕地に近い京店商店街西端の東茶町、通称京屋小路に句碑の建設を目指した。昨年十二月二十四日の『山陰中央新報』には、“来春の完成に向け、年明けから六十万円を目標に寄付を募る”、との説明が読める。八雲を偲んで詠んだ「八雲忌や 供ふるものに 虫籠も」の句を刻むことが予定された。

去る四月十五日、句碑の除幕式があった。高さ一一〇センチ、幅五五センチ、奥行き四五センチの句碑は御影石で建てられた。 繞石の句は再考の末に、「湖(うみ)をちこち 何を漁(いさ)る火 天の川」と決定した。これは大正六年の作である。「故郷を偲びて 二句」の内の一つで、湖は勿論宍道湖である。その宍道湖も当時は、漁舟が昼も夜も多く出ていたことであろう。遠く異郷に在って故郷松江への想いを募らせる大谷の心境が伝わる好い句である。大正六年といえば、親交のあった夏目漱石が前年に没し、大谷がまだ金沢四高の教授をしていた頃である。句碑には次のような「大谷繞石経歴」が添えてある。

明治八年、松江市末次本町に生まれる。松江中学でラフカディオ・ハーンに教わる。東京帝大入学後、再びハーンに教わる。子規庵句会にも参加。金沢四高教授時代、子規派句会「北声会」を指導、弟子に室生犀星がいた。

大谷繞石縁りの広島市と松江市、山陽・山陰の両市に句碑が揃ったことは、まことに慶賀すべきことである。これによって、近代俳句草創期の俳人としての大谷の業績を広く両市民に知らしめ、長くその偉業が顕彰されることを祈りたい。

広島市文化協会文芸部会が、平成十九年十一月に、広島市立中央図書館で企画展「掘り起こす広島の文芸―大正デモクラシーから終戦まで―」を開いた。ブックレット(小冊子)が平成二十一年に発行されている。飯野幸雄氏が「俳句 広島俳句前史」を担当、その中で、次の如く述懐している。飯野氏ならずとも、まだまだ大谷繞石について知らない人が多い。我々はさらに繞石の顕彰を続ける責務を痛感する次第である。

(繞石の)『己がこと人のこと』を読んでみて驚いたのは、広島の俳人としてこれだけの経歴を持った人は、これからも滅多にいないだろうということである。正岡子規に直接門人として教えを乞い、高浜虚子、河東碧梧桐ともに旧制高校のクラスメートで、松江中学では英語を小泉八雲に教わり、東京大学在学中は正岡子規の下で俳句に取り組み、東大講師となった小泉八雲の英語の授業を受けると共に八雲の援助を得ながら卒業し、夏目漱石には家族で歓待してもらえるような親しい付き合いをしていた、というのである。私はこんな人物が広島にいて活躍していたことを地元にいながら全く知らなかった。

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