住吉神社

月刊 「すみよし」

『日本文化の根源、神道について』
 照沼 好文 

偶々、十数年前の古い新聞切抜きを整理していたところ、平成五(一九九三)年四月に、ニューヨーク・メトロポリタン美術館のデンダー神殿で、梅若六郎率いる観世流の「能」が公開され、その開幕直後の四月二十四日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙(一九九三年四月二四日土曜日号)が出てきた。その同日付、劇評欄のトップに『エジプト神殿、能舞台に』という見出しで、メル・ガッソウ(Mell Gussow)氏の紹介文が掲載されていた。国内の新聞紙上にも、この「能」公演を『「幽玄」越え観衆圧倒』(朝日、一九九三・四・二九号)、『幽玄な舞台に酔う客』(中日、同年六・二、夕刊)などのキャッチフレーズで報道していた。恰も、ことしは「源氏物語千年紀」という年に当り、古典文学や古典芸能などに対する一般の関心も非常に盛上っている時なので、古典芸能である「能」が外国において、どのように理解され、そして受容されたか、―を「能」のNY公演を通してみてみようと思う。

ところで、一九九三年のメトロポリタン美術館における「能」舞台となったデンダー神殿は、エジプトの遺跡がダム建設で埋没するのを救済するため、米国政府が巨額の援助を行ったお礼に、エジプト政府から贈られたものであるという。(前掲、中日新聞に拠る。)また、この「能」公演は、紀元前一世紀の古代遺跡、デンダー神殿を背景に舞台が設けられ、そこで演じられた。このことを、NYタイムズは、「メトロポリタン美術館にとっても、日本の伝統演劇にとっても、記念すべきイベントであった」と冒頭に述べている。三日間にわたるここでの公演では、初番目「翁」で初日が開け、狂言「二人袴」などが演じられ、そして打ち止めの能は「大般若」であったが、この日本の伝統芸能とその舞台になった古代エジプト神殿との取合わせについて、さきのタイムズ紙には、つぎのような感想が述べられている。

たんにエキゾティックとしか見られない恐れのあったこの取合わせが、実は最も自然な組合せだと証明された。こうした舞台環境づくりのもとに、観世能楽団は、もともと一四、五世紀には神社で演じられていた能の、精神的原点に迫る感情を、あやしくも呼び起こしてくれた。…そして今度の公演は、すべてデンダー神殿への、梅若(六郎)氏からの奉納にほかならぬ。高い丸天井を頂いたこの神殿は、能という古典劇の上演には、まことに壮麗な環境と言える。(原英文。引用文は金関寿夫氏の訳による。)

そしてまた、この紹介文を書いたメル・ガッソウ氏は、神殿をつつむ環境と能との調和を、こう述べている。

日が落ちると、舞台の上の能楽師の姿が、セントラル・パークに面した温室風の窓ガラスに映って、観客に二重の映像を提供してくれる。窓に映る映像は、宙に浮く壁画さながら、同時に下のステージでは、目をあざむくばかりの視覚的、劇的?爛さが共振する。(前掲同。)

  ※      ※

以上、古代エジプトの遺跡、デンダー神殿と日本の古典芸能「能」との東西文化の見事な調和の姿が見られた。とくに、この神殿で取り上げられた「能」の原点には、「祖先以来、日本人が民族の信仰として持っていたものがあり、それが「能」として芸能化されたことが指摘されている。(『神社新報』、第二一四〇号所載、人間国宝松本恵雄氏と宮崎義敬氏との対談における宮崎氏の指摘)。

ここで私たちは、祖先以来連綿と続く神道に深く思いを至さねばならない。『不滅の日本芸術』の著者、ラングドン・ウォーナー博士(一八八一―一九五五)は、日本芸術の根源としての神道について、こう述べている。

たいていの美術史家は、神道が常に芸術家の生活を規制していた事実を見落しています。自然のもろもろの力が、なまの材料から人工の器物を作り出す人々、狩猟や魚撈や農耕に従ふ人々の、あけくれ気にしている当の相手なのです。だから神道は、代々の日本人に、どうすればこれらの力が制御できるかを教へこみ、その結果、それら制御の方法が神道の祭祀に深く根をおろすこととなりました。(註)

ともあれ、こうした言葉を聞くとき、日本文化・思想の根源である神道について、私たちは一層関心を深め、その隆盛(りゅうせい)を願わなければならない。

(註)原、英文。寿岳文章博士の訳文に據る。『不滅の日本芸術』(朝日新聞社・昭二九・二・一〇刊)三二頁引用。なお、原本“The Enduring Art of Japan,”Harverd University, 1952. 十八頁―十九頁参照。

 

『小泉八雲と穴道湖』
風呂鞏

九月末から始まったNHKの連続テレビ小説『だんだん』(注一)。松江でシジミ漁に従事する父親と京都の芸妓の間に生まれた双子の姉妹は、松江と京都で別々に育った。出雲大社の縁結びの神様が紡いだ“縁(えにし)の糸”に導かれて、ある日二人は、運命的な出会いをする。物語の途中で、ちょっとした行き違いから、周りに迷惑を掛ける場面もあるが、それぞれが若者らしい勇気を持って、自分自身の人生を模索してゆく。このドラマは、脚本家の森脇京子氏がタイトルの『だんだん』に託した如く、周りで支えてくれる人々への感謝の気持ちがやがて固い絆へと止揚するシーンで、ハッピイエンディングを迎えるに違いない。出雲に生まれ育った歌手の竹内まりやが主題歌を歌い、語りを担当しているが、こうした役割は出雲大社の神様から戴いた幸運なのだと、彼女自身も『だんだん』のホームページで感謝の気持を吐露している。出雲の神様のご威光は、まことに霊験あらたかであるとしか言い様がない。

ストーリーが醸し出す、人びとの心の温もりを支えるのは、画面を飾る出雲大社、一畑電車、京都祇園の街並み等の美しさであろう。然しそうした中で、『だんだん』の魅力を俄然引き立たせ、視聴者をこのドラマの虜にしているのは、嫁が島を浮かべる宍道湖のかすんだ風景であることに異議を唱える人はいまい。昭和二十六年の全国観光百選記念には、「嫁が島の残照」を含む宍道湖十景が選定されている。

『出雲風土記』の意宇郡(おうのこおり)の一節に「野代の海の中に蚊島(かしま)あり。まわり六十歩あり。まなかはクロ土にして、四方はみな磯なり」と出ている。この蚊島というのが、宍道湖の嫁が島、まわり約二〇〇メートルの細長い短冊のような島である。西の数株の松の下に、竹生島神社があり、このお宮は、松江城をつくった堀尾吉春が、弁財天をここにお祭りしたのが起源だといわれている。宍道湖に溺れた美しい乙女の水死体を乗せて、一夜にして浮かび上がったとか、また里帰りの心急くまま、つい近道して氷の張った宍道湖を歩き、誤って氷の割れ目から落ちて亡くなった若い嫁の死を悼んで、この島にお祭りしたのだ、などの語り伝えがある(注二)。

小泉八雲は明治二十三(一八九〇)年四月四日に日本に到着した。早くも八月三十日には松江へ英語教師として赴任して来た。一年三ヶ月しか滞在しなかった松江であるが、八雲は松江とそこに住む人々をこよなく愛した。八雲はまた、宍道湖の美しい風景を心底から愛した。川本貢功写真集「宍道湖抒情」(くもん出版)の中で、梶谷泰之・元八雲会々長が次ぎの様に語っておられる。

八雲は夕日を見るのが大好きで、わざわざ市の西南袖師ヶ浦へ日課の如く夕日を見に行って、時に親友の中学校教頭西田千太郎と歓談して浅酌低唱を楽しんだ。蕎麦屋は栗原屋といった。この視角からが宍道湖の夕日は一番美しく見られるし、明治時代、湖岸唯一の曲浦で、近江八景矢走の帰帆のように大小船舶が白帆を風にはらませての帰帆風景は松江の一名勝となっていた。

残念ながら、栗原そば屋はもう残っていない。しかし、宍道湖の南、松江市栄町にある「円成寺」(臨済宗妙心寺派。山号は鏡湖山)の入り口には、「円成寺と小泉八雲」と題して、次ぎの説明板が今も建っている(注三)。

小泉八雲(ハーン)は、明治二十四年(一八九一)三月十九日、島根県尋常中学校教頭で親友の西田千太郎と共に円成寺を訪ね、寺の山中を散策している(「西田千太郎日記」による)。また、ハーンは当時この付近の湖岸にあった栗原そば屋をしばしば訪ね、宍道湖に沈む夕陽を眺めた後に、酒飯をとり休憩を楽しんだ。当時、袖師が浦はまだ埋め立てられておらず、現在の鉄道のあたりまで宍道湖の水が来ていて、大小白帆の和船が出入りする入江で美しい景色を誇っていた。

『日本瞥見記』の第七章「神々の国の首都」には、先に述べた“嫁が島伝説”の紹介もあるが、宍道湖の夕日について八雲自身次ぎのように述べている。

湖水のほとりのそば屋から夕日を眺めようと思って、わたくしは町の西南のはずれへと足を運んで行く。このそば屋から眺める夕日は、わたくしの松江の町における楽しみのひとつである。日本には、熱帯地方で見るような、ああいうどぎつい日没はない。夕日の光りが、夢の光りのように静かだ。

イオニア海のレフカダ湾と袖師付近から見た宍道湖南岸の風景は、奇しくも山並みが酷似する。八雲は二歳頃までの脳裡に映った原風景を、四十年をへて、憧れの極東の地日本の出雲地方に見出した。八雲の松江時代は、一生を通じての生母ローザへの思慕と宍道湖への愛着とが重なった至福の日々だったのではあるまいか。    

 

(注一)「だんだん」は「ありがとう御座います」という意味の出雲弁。「ばんじまして」(夕方の挨拶で、「夕方になりましたね」の意)などもよく耳にする。
(注二)松江は冬寒く、よく雪が降った。文化九(一八一二)年には積雪八尺(約二・四メートル)、湖の氷原上五尺に及んだという。また明治十四(一八八一)年の大雪は維新以来の大荒れとなり、一月十九日から二十五日にかけて松江で積雪八十五センチ、宍道湖も凍結し人馬が交通したという。
(注三)松江開府の祖、堀尾家三代の菩提所として屈指の名刹で、堀尾忠晴公の木像をはじめ堀尾氏ゆかりの遺品がある。境内には忠晴の五輪塔形式の墓石もある。

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