住吉神社

月刊 「すみよし」

『小泉八雲と語学教育(一)』
風呂鞏

いじめ・体罰・暴力など幾多の難題を抱える昨今の教育界であるが、語学教育に関してもまたまた大きな試練に立たされている。二〇一一年四月から小学校五、六年生に英語の授業が必修化されたことは既にご承知のとおりであるが、今年一三年度から高等学校学習指導要領改定案で「英語の授業は英語で行うことを基本に」という、まことに乱暴と言うか、或る意味では、思慮に欠ける方針が示されたのである。

やがてインターネットやブログでも喧々諤々の議論が噴出するのは必定と思うが、「英語で英語を教える」以前に「外国語を学ぶこと」の意味をどう捉えるのか、そうした根幹の判断・基準に就いて本家本元の文部省の方針が実に曖昧であり、その無策さが拭いきれない。一国の教育の土台を揺さぶる、亡国的な文部省の“早とちり”と言わざるを得ないのである。

こうした状況の中、敗戦後教育の場から背後へと押しやられていたラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲(一八五〇―一九〇四)の「復権」を期待する声が俄かに高まりつつある。英語教師ハーンこそ、今の時代に求められる日本人の心、そして文化継承の大切さを伝えた人物に他ならず、この高まりは至極自然な成り行きではあるまいか。

期待の声が天まで届いたのかどうか解らぬが、先頃『ラフカディオ・ハーンの英語教育』(弦書房)が出版された。富山大学に残っていた友枝高彦(一八七六―一九五七)の筆記ノートの復元である。友枝が熊本第五高等中学校時代(明治二六年秋から二七年春にかけて)ハーンから英語を習い、その授業内容を克明にノートしたものである。リーディング中心でなく、音声面を重視して正確な英語の知識を身に着けさせることを目標にした授業、語源、図解、東西文化の差異、学生に身近な話題などに留意しながら進めて行く授業、教わる側の日本の学生と同じ目線に立った温かみのある授業、そうしたハーンの授業を再現してくれる第一次資料である。まさにハーン先生の前に坐り、生の声を聞きながら黒板の英語を写しているかの如き臨場感が味わえる記念碑的な出版だと拍手を送りたい。

アメリカ時代の二十年間、シンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニーク島でジャーナリスト、作家、レポーターとして活躍したハーンは、明治二十三年(一八九〇)来日した。その年八月に神々の国出雲に到着、島根県尋常中学校および師範学校で生涯初めて英語教師となった。次いで熊本第五高等中学校、東京帝国大学、早稲田大学で教鞭を執ったことは周知の通りである。ハーンは来日以前既に言語教育への関心があり、ニューオーリンズ時代、幾つかの論説記事を『タイムズ・デモクラット』紙に載せた。ハーバート・スペンサーの進化論を信奉していたハーンは、島根県教育会の講演でも「想像力の価値」と題して話している。ハーンは松江での経験を『見知らぬ日本の面影』所収の「英語教師の日記から」に、熊本での教師生活を『東の国から』所収の「九州の学生達と共に」に書いた。東大での講義はハーン没後、教え子達のノートをもとに本になっている。

友枝高彦「筆記ノート」復元で、熊本時代のハーンの授業に関してかなりの部分が解明された。一方、松江時代の「英語教師の日記から」に拠ると、「日本の生徒を教えることは、かねがね想像していたにもまして、なかなか面白いことであることがわかった」と、好調なスタートであったことが読める。そしてジャーナリスト的でもあったハーンは、自分の勉強をも兼ねて、英作文の課題を与え添削を施すことで、中学生たちの心に溶け込んでいった。幸いにも、熊本県立図書館に保管されていた大谷正信(一八七五―一九三三)、田辺勝太郎(一八七二―一九三一)両名へのハーンによる英作文添削のガラス乾板が発見され、二年前『ラフカディオ・ハーンの英作文教育』として復元出版されている。

挨拶英語の会話練習ではなく、しっかりした内容を師弟がやり取りする英作文授業には目を見張るものがある。田辺が書いた「天皇」(英語は省略)の一部を以下に紹介する。

この世には唯一の天皇がおられ、あらゆる時代を通して途切れず万世一系の天皇がこの世を支配してこられた。日本の天皇は確かに神聖で敬愛を受けるにふさわしい。陛下あるいは主上という言い方で私達はこの御方をお呼びしてきているが、どちらも「大帝」という意味である。天皇は大きな恵みでもって帝国を支配し、全国民の福祉を増進させることを願い、臣民の知的能力を向上させようと思っておられるのだ。従って私達は敬虔な心と愛国心をもって天皇に仕え、命を犠牲にしても天皇とこの国に奉仕しなければならない。

一学年下の大谷は、今日我々がTPP問題で議論をしているような内容をハーンにぶつけ、東西文明の比較論となっている。ハーンは日本人たる矜持を保って生きるようコメントし、兄が弟を諭すようなアドバイスを懇切に書き添えて返却している。

おそらく全てのヨーロッパ民族は情け容赦ない文明の力をもっており、何處にでも植民する野望をもっている。もしヨーロッパ人が日本の内部に植民して来たら、大きな経済力にまかせて日本と争うことになる。そして打ちのめされるのは我々の方だ。かくしてヨーロッパ人は皆栄え、彼らはこの大和の国の大部分を買収し最後にはインドや太平洋の多くの島々のように日本を支配下に置くであろう。(大谷)

必ずしもそうではない。私は日本民族の力に大きな信頼を置いている。(中略)日本は今では高度に文明化された国であって、ヨーロッパが野蛮であった時でもすでに進んだ国であった。大きな戦争を起こすなら話は別だが、日本を支配することは不可能である。日本の貧しさというものはまさに力の源泉なのである。(ハーンのコメント)

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