住吉神社

月刊 「すみよし」

『こころのふるさと伊勢』
 照沼 好文

文久二(一八六二)年に来日し、明治初期に英国の駐日公使館書記官として活躍したアーネスト・サトウSir Ernest M.Satow(一八四三—一九二九)は、外国人として初めて明治五(一八七二)年一二月二日伊勢神宮を公式に参拝している。そして、明治七(一八七四)年には、『伊勢神宮』—The Shinto Temples of Ise—を発表している。

恰も明治二(一八六九)年九月四日には、伊勢の内宮式年遷宮、同月七日外宮式年遷宮が行なわれている。明治天皇はその遷宮に先立ち、同年三月十二日に外宮、そして内宮を親謁あそばされた。こうした維新直後の動向は、おそらく来日外国人の注目するところであったろう。サトウの『伊勢神宮』には、神宮に対する庶民の信仰について、「毎年、とくに旅行に適した温暖な春の季節に多いが、数千という信者が伊勢参りに出かける。民衆は伊勢神宮の神々を『大神宮様』と呼んでいるが、江戸の職人などは、すくなくとも年に一度伊勢参りをすませ、『大神宮様』の加護を求めておかないと、暮らしを立ててゆくことはできないと考えているほどである。農民の場合、この信仰はいっそうつよい」と述べている。そして「日本人にとって伊勢神宮は、ギリシャ人やアルメニア人にとってのパレスチナ、イスラム教徒にとってのメッカの如き聖地である。」が、日本人のどの家にも、「『神棚』と呼ばれるものが飾ってある。これは木製で、神社の小さな模型である。そこにはさまざまな神の名前を記した神の御札が収めてあるが、そのうちのひとつは、かならず天照皇大神、伊勢神宮の主要な祭神の御札である」と日本人と神宮との結びつきについて説明している。

さらに、同書には内宮、外宮の鳥居、玉垣、瑞垣或いは神苑内の各建物等に関する全体の配置や建築様式について詳しく説明した上で、内宮の天照大神、外宮の豊受姫神をはじめ、古伝に現われる神々の神徳を述べている。(註1)

ところで、さきの『伊勢神宮』には庶民の「伊勢参り」の様子を紹介しているが、江戸時代中期頃には、この伊勢参りが一般庶民の間で大きなうねりのような社会現象として起ったという。とりわけ、江戸中期の宝永二(一七〇五)年、明和八(一七七一)年、文政十三(一八三〇)年には、伊勢参り即ち御蔭参りの参宮人数が最も多い。殊に文政十三年の参宮者数は五百万人に達したといわれる。(深沢秋男氏校注『井関隆子日記』上の「脚注」に拠る。)因みに、『井関隆子日記』上をみると、同『日記』には天保十一(一八四〇)年四月二日の記事に、当時の模様が詳しく書き記されている。(註2)

「御蔭参りとて、伊勢の大御神の宮へ、天の下の人こぞりて詣づる事、昔もたびたび有けるを、今は十年(ととせ)あまりに社(こそ)なりつらめ、文政とふ年の終りの年なりけらし、もろもろ(諸々)の国人いみじう詣づる事ありき。弥生(やよい)ばかりより夏のはじめ、殊に夥(おびただ)しう、一日に詣づる人の数、幾万(いくよろづ)とも記しがたう、目ざましき事となむ。」と書出し、その状況を目撃してきた者の話しを書き留めている。「弥生の頃、かの道筋(みちすぢ)」とくに石薬師、関の宿あたりは、参宮の群衆で雑踏して通行できない状態だった。「殊に都(みやこ)方より出る人が」多いようで、仲間から離れて迷子にならないために、「目印の花など折かざし、あるは旗やうの物おし立て」また同行者一同が同じ装束姿の参宮者などで、「いみじき見物(みもの)」であったと記している。また参宮者の通行する道筋の人々も、様々な食物を用意して往来する参宮者達へ、心からのもてなしとして食事などを施したという。さらに、さきの文政十三年より「二年ばかり先に、同じ文月頃」の話しとして、さきの『日記』には、年歯も行かぬ六、七歳の男の子が単身参宮を済ませ、江戸への帰途、同じ旅館に泊った参宮者に、無事江戸の親元まで連れ帰ってもらった記事が見える。その終りに「さるにても、かばかり幼きものの人にしらせず、いかに思ひて かうはるかなる旅路におもむきたりけん。あやしう神の御心にかありけん。さてぞ知(しら)ぬ人もあはれがり、道のほども障(さわ)りなくて詣でけむと、御(おん)神の御徳さへ仰がれて、いとたふときことになむ。」と結んでいる。

いま、私たちの心のふるさと伊勢の神宮では、二十年に一度行われる平成二十五年の第六十二回式年遷宮祭の準備が進んでいる。混沌とした政局の渦中にある今こそ、正に大御神のご神徳を仰ぎ、また一層の信仰を深めて国家の土台をしっかりと築かねばならぬときであると思う。

(註)
1 萩原延寿氏の『遠い崖』—「サトウ日記抄」—所載の訳文を引用した。  上記の『遠い崖』は、『朝日新聞』夕刊に長期間掲載された が、本稿では一四三六回と、一四三七回の記事から引用した。
2 深沢秋男氏校注『井関隆子日記』上巻、一一九頁—一二〇頁。

 

『小泉八雲の神道理解(二)』
風呂鞏

去る九月十五日、森脇宗彦宮司(広島県神職保護司会長でもある)の御依頼に甘えて、神職保護司会の皆さんに「小泉八雲と神道」と題してお話をする機会が生じた。

筆者は以前『すみよし』三二八号(平成十七年七月)に「小泉八雲の神道理解」なる一文を寄せたことがある。大風呂敷を広げたタイトルの割には、八雲の出雲大社訪問のさわりを少し紹介したのみで舌足らず、内容の浅いものであった。紙面上の制約もあり、八雲の感性を通して神道理解を深めて行きたいとの願望を述べたに過ぎない。しかし、松江から出雲大社へ向う際、宍道湖を渡る蒸気船上での八雲の体験は、「燦燦と光り輝く日の光の中、霞たなびく山並みや妖しく青い湖面に立ち込めるまさにこの大気には何か神々しいもの・・・神道の感覚が感じられる」(注一)と誠に印象的で、この「神道の感覚」を感じることこそが神道の理解に繋がるのでは、と言及した記憶はある。

あれから四年、筆者の神道理解に著しい進展があった訳ではないが、今回の講話に際して付け加えた点もある。先の寄稿と重複する部分もあるが、「神道理解(二)」と銘打って、発表の一端をここに記しておきたい。

周知のごとく、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、ニューオーリンズ万博で日本政府派遣の服部一三と出会い、B・H・チェンバレンによる『英訳古事記』の存在を知る。当時のハーンはあくまでキリスト教を忌避した人間として、仏教思想に関心があった。しかし、『古事記』を読んだことで、日本の古い神話の中にギリシャ神話と酷似したものがあるのに驚き、日本訪問への熱情が一段と高まったことは想像に難くない。

一八九〇(明治二三)年日本にやって来たハーンの頭には当然、“仏の国”日本で自己の仏教理解をさらに深める目的があった。横浜に着くや否や、「テラへユケ!」と叫び、人力車で寺社巡りをした。と或る寺で見つけた本が、既に読んだことのあるオルコットの『仏教階梯』だと指摘できたほど、ハーンの仏教知識は豊かであった。

こうしたハーンが日本滞在十四年間を通じて、神道理解を発展させていったことは、誠に興味深い。しかも欧米のジャパノロジスト達、即ちチェンバレン、サトウ、アストンなどと異なり、文献ではなく、民衆の日々の信仰に、神道的心性が今も尚見られることに開眼したことは注目に値する。そうした意味で、“神々の国の首都”である松江に来てわずか二週間後、杵築の出雲大社に参詣したことの意義は量り知れないのである。

チェンバレン著『日本事物誌』の神道の説明「神道は宗教と称されることが多いが、実際はほとんどその名に価しない。教義もなければ、聖典もなく、道徳的規範すらも欠いている。・・・神道はいわば根無し草で、その中には何も無いから、人々の心を捉えることが出来ない」に対して、「そのまさしく“無いこと”によって、(神道は)西洋の宗教思想の侵略に抵抗できた。これは東洋の如何なる宗教もなし得なかったことである」と反駁するハーンの方が、より説得的で神道の本質に迫る理解ではあるまいか。

神々しい霊気に蔽われた宍道湖を横切って、大社へ近づく船のエンジンが「コトシロヌシノカミ オオクニヌシノカミ・・・」と神の名を告げる。その音が耳に聞こえてくる、と実感したハーンの興奮は、出雲大社で本殿への昇殿を許され、ピークに達する。

この杵築訪問で大切な事は、ハーンが外国人として初めて大社本殿への昇殿を許され、神々の末裔である千家尊紀宮司に会えたことに加えて、この国の古代信仰・神道という偉大な宗教が発祥した本家本元の「神社」を見た、という事実である。

教典など“無い”ことが神道のエッセンスではあるが、実は全て“無い”のではなく、神道には神社(建物)が厳として存在するのであって、この建築物の存在意義が大きいことに、ハーンは思い至るのである。これはまさしく、世界的建築家ブルーノ・タウト(ドイツ人)の感性とも通底する視点であると言えよう。

ハーンは一八九七年に『仏の畑の落穂』(注二)を発表する。その冒頭作品「生き神様」の中で、英語で書かれた最も優れた神社説明をした。即ち、自然の懐に抱かれ、自然と一体となった神社について、かつて類を見ぬほどの分析を披露したのである。

やがてハーンは「日本文化を育んできたものは、実はわれわれ国民の内にある神道的心性である」と述べるなど、神道理解を深めるが、日本研究の卒業論文と称される『日本—ひとつの試論』を残して他界する。これは「社会を知るためには、そこに残されている宗教を調べるのが一番であり、地中海世界の社会組織と日本のそれとが似ている」とした、フェステル・ド・クーランジェの『古代都市』を参考に発表したものである。ここには民俗学者としてのハーンの姿が投影され、「祖先崇拝」に日本精神のエッセンスを見出したハーンの日本理解がある。

東洋文庫『アーネスト・サトウ神道論』(庄田元男編訳、平凡社)巻末の解説の中で、遠田勝氏の論考を参考にした、西洋人による神道評価の二つの流れが紹介されている。一方はサトウ、チェンバレン、アストンと続く日本アジア協会員の学術研究であり、他方はハーン、タウト、マルローという芸術家の孤立した見方である。ハーンは民衆の心に、タウトは建築に、マルローは絵画にそれぞれ神道の実在を感知した。前者の所謂正統派は、文献を駆使し、神道の本質を見極めようとアカデミックな認識の下に、宗教としての神道に疑問を示した。後者は、感性に頼り、文学的に神道を受容したのである。

両者とも興味深い神道へのアプローチで、いずれを高く評価するか、早急に結論を出すことは出来ないだろう。しかし筆者は、ハーンが神道理解において、日本の道徳経験や特質はexpress「表現」されるものではなく、 suggest「暗示」されるものである、と指摘したことに、神道理解に迫る大いなるヒントが隠されている、と考える者である。果たしてこれは、ハーンに肩入れし過ぎた評価なのであろうか。

(注一)『日本瞥見記』の「杵築」(大東俊一訳)からの引用。
(注二)来日第四作目の作品。機会万能の近代を嫌悪し、庶民生活の底に流れる仏教的なものや、
自然を観賞するなかから東洋的理想を探り当てた随筆。

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