住吉神社

月刊 「すみよし」

『国民道徳の復活を』
照沼好文

ことしは、『教育勅語』渙発(明治二十三年十月三日)百二十周年記念の年にあたる。同時に、終戦六十五周年という節目にもある。とくに、『教育勅語』は、日本民族固有の大道、国民道徳、学問教育の根本をお示しになった明治天皇のお言葉である。丁度、明治維新後の社会には、急激な西欧化の波が押し寄せ、日本の歴史や伝統を軽視して、西洋文化偏重の傾向が強かったために、聖上はこうした風潮をご憂慮になり、『勅語』渙発に至った。

他方、戦後六十五年を経過した今日の日本社会の現状はどうであろうか。連日、マス・メディアの報道は陰惨な社会問題を報ずることが多く、朗報を耳にすることが少ない。とくに、こうした退頽的な社会問題の背景には、まず一般の国民道徳の低下といったことが考えられる。端的には、戦後の連合軍総司令部が発令した指令によって、日本の改革が行われたことに渕源すると思う。

例えば、総司令部は日本の思想、文化の根源である神道をはじめ、国民道徳、学問教育等の思想、内容に斧鉞(おえつ)を加え、それらの変革を指令した。とりわけ、総司令部は最重要な指令として「教育に関する四つの指令」を強調した。

1「日本の制度の管理についての指令」

昭和二十年十月二十二日

2「教育関係者の資格についての指令」

昭和二十年十月三十日

3「国家神道についての指令」

(「神道指令」)昭和二十年十二月十五日

4「修身科・国史科・地理科の中止についての指令」昭和二十年十二月三十一日

上の四つの指令中、3、4の条項が注目される。

とくに、「神道指令」こそ、戦後の日本にとって苛酷な指令であり、今日に至っても尚その後遺症は、社会に悪影響をとどめている。この指令では、国家神道と国家との分離、軍国主義及び極端な国家主義の除去の名目で、国家、社会公共のために、尊い生命を殞(おと)した人びとを祀る施設や顕影する銅像、塔、碑等まで、その対象になった。そして、学校教育における初等、中等教育では、『教育勅語』の趣旨を中心にした道徳教育が行われていたとして、また『勅語』の基本原理を敷衍化した内容として、とくに修身科は除去された。

次の4の条項は、昭和十八年文部省編さんの修身、国史、地理などの国定教科書の使用禁止した内容であるが、昭和二十一年十月十六日付の指令で、地理の授業は再開され、同年十月十六日新教科書のもとで、日本史の授業の再開が認められた。しかし、修身科はついに再開されることなく、完全に学校のカリキュラムから姿を消した。

ともあれ、未曾有(みぞう)の敗戦と、それに伴う占領政策によって、民族固有の神道をはじめ、従来の国民道徳、学校教育などは、戦後の受難時代に遭遇した。しかし、名宰相吉田茂翁は、嘗て戦後日本の再建について、

なによりも重要なことは、日本人が好学心の強い国民であったことであろう。それに歴史的に作られた国民的特性ともいうべきものがあったが、教育は明治時代にも、戦後にも、大きな力を与えた。

教育が近代化において中心的な役割を果したことは、日本の近代化の最大の特徴といえるであろう。(『日本を決定した百年』)と述べている。勿論、これには『教育勅語』が、大いに与って力あったことはいうまでもない。

『日本語は亡びない』
風呂鞏

昨今の国内外に於ける村上春樹ブームは別格として、二十一世紀を迎えて、作家芥川龍之介が、その先見性や社会性が見直され、海外で熱心に読まれるようになり、二〇〇三年四月から新たにスタートした高等学校国語教科書『国語総合』すべてにおいて、芥川の『羅生門』が登場したことは既によく知られている。

また、その前の年二〇〇二年に、近代日本の文学を代表する夏目漱石と森鴎外の作品が、中学校の国語教科書から消えたという現実が、新聞や雑誌やテレビの話題となったことも、同様にご記憶の方は少なくないのではあるまいか。

その夏目漱石の作品『三四郎』(一九〇八)の第一節に有名なシーンがある。東大の学生となった三四郎が熊本から上京する途中、乗った列車内で髭のある人(広田先生)と隣り合わせになり、その際二人の間に次の会話が交わされる。此処には西洋相手の戦争で勝っても、近代国家としての日本がまだ如何に脆弱であるかを知る漱石の鋭い批評眼が読める。

日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。

「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。

ところで、昨今はインターネット時代を反映してか、外国語ブーム、いな、英語の圧倒的優位と言える世の中になったかの観がある。テレビを点ければ英語の番組のない日はなく、特に幼稚園向きの英語番組の多さが際立つ。小学校では既に低学年から英語教育に熱心で、日本語を録に覚えてもいないのに、早くも英語塾へわが子を通わせることに狂奔する親も少なくない。まるで日本国中が英語熱に浮かされて、我々の貴重なる財産である日本語を惜しげもなく捨て、植民地化へまっしぐら、と形容せざるを得ぬ暗澹たる状況ですらある。

先に紹介したように、夏目漱石は『三四郎』の中で、叡智を代表すると思える登場人物、広田先生に「(日本は)亡びるね」と語らせているが、出版界でも、日本語の将来に不安を覚えるような悲観論、すなわち、広田先生の言葉をそっくり真似たと思えるようなタイトルを有する本が出版される段階となっている。

作家の水村美苗氏が上梓した『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房)もそうした憂国の書の一つと言えよう。

こうした日本語に対する自信喪失というか、憂うべき趨勢の中にあって、言語としての日本語を支える思想こそが、日本のみか混迷する世界を蘇生できる力を具えていると主張する誠に頼もしい人物・金谷武洋氏がいる。今回は氏およびその近著を紹介するものである。

カナダで20年にわたる日本語教師の経験を持つ金谷氏は、先に『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)で、三上章の『象は鼻が長い』こそ日本語教育のバイブルであるとして、大きく取り上げたことは記憶に新しい。

今回の標題「日本語は亡びない」は、ちくま新書から出版されている金谷武洋氏の近著のタイトルでもある。海外から日本語を見ると、日本語は大変人気があり、学習者の数もウナギ上りであるにも拘らず、国内で日本語が亡びると危機感を持つ原因の一つは、カタカナで表記される外来語の氾濫に由来する。

しかしその懸念を払拭すべく、金谷氏は日本語が、@品詞 A基礎語彙 B表記 C発音 D語形 という五つの防衛機能(免疫)で守られていることを指摘している。

この五つの防衛機能についてここで詳しく述べるスペースはないが、例えば、金谷氏は、日本語を語彙面で支え、ある意味で外来語から守っている「二モーラ」のリズムの快さを、日本人が幼少期、母親が身体を揺らしながら歌ってくれた“わらべ歌”から体得したことを指摘する。わらべ歌のリズムは「あめ・あめ・ふれ・ふれ・かあ・さん・がぁ」から「ぴち・ぴち・ちゃぷ・ちゃぷ・らん・らん・らん」まで、「二モーラ」のリズムになっているのである。金谷氏が英語を小学校から教え始めることに抵抗をもつ理由もここにある。

金谷氏はさらに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「日本人の微笑」(一八九三年)の一節を引用する(但し、金谷氏が自己流に要約したもの)。

日本人はこれだけ素晴らしい文化と伝統を持っていながら、ヨーロッパに追いつき追い越そうとするあまりに欧米人の合理的な心も一緒に輸入しようとしている。器用な日本人は、彼らが作り出す製品は、近い将来欧米をはるかにしのぐ製品を生み出すようになるだろう。だが、そうなった時にはもう日本人は日本人ではなく、日本人によく似た西洋人になってしまっていることだろう。そして、そうなった時に日本人は初めてかつて自分の町内の角に必ず立っていた石仏の何とも言えないかすかなほほえみに気づくだろう。実はそのほほえみは、かつての彼らの、彼ら自身のほほえみなのだ。

日本人は「日本人によく似た西洋人」にはならなかった。ハーンの予想は半分的中した。「器用な日本人」が「欧米をはるかにしのぐ製品を生み出すように」はなった。その一方で、「欧米人の合理的な心」には馴染まなかったのだ。その秘密が日本語にあると、金谷氏は胸を張って述べる。我々は共視・共生の思想を具現する日本語を見直す必要がある。

(注)モーラ(mora)は「音韻論上の単位。一子音音素と一短母音音素とを合わせたものと等しい長さの音素結合。拍」(広辞苑)。俳句の五―七―五はモーラを数えるもの。

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