住吉神社

月刊 「すみよし」

『明治人の誇り』
照沼好文

終戦前、広島には「大纛(たいとう)進転記念日」(九月十五日)という日があったと聞いている。「大纛」とは、大み旗の意。即ち、明治二十七年九月十五日に、日清戦争が起るや、明治天皇は東京で前線の戦況をお聞きになり、その進展の模様などを把握することのご不便から、大み旗を広島にすすむ給うた日を記念日とした。

また、その日には「大纛進転記念日の歌」が市民の間でうたわれた。歌詞には、自ら御聖徳を敬仰する市民のこころが、荘重に響いてくる。

あなかしこしや 九重の/花の都を出でまして/大御心の 広島に/進めたまへし 大纛/この御光を 行宮の/三篠の城に 仰ぎしは/いともかしこき 大君の/御代長月の 十五日/仰げや仰げ けふの日を/いつき島わの いつまでも

当時、汽車は広島駅までであった。尓来八ヶ月間、第五師団司令部においてきわめてご質素な日常の生活と、昼夜前線からの情報によって指揮をお執りになった。とくに、明治維新以来の一大国難と言われた日清戦争は、国の存亡をかけた戦いであった。当時、上下を挙げていかに緊張して、この大困難に直面したか、到底今日の私たちには想像できない大戦であったと思う。

また、同年十月十五日には広島において臨時第七回帝国議会を招集させ給うた。これに先立ち、貴族院、衆議院両院の会議場として、仮議事堂を西練兵場内に建築し、その背後に主上のご休息の御便殿を建てた。御便殿を中央にして、侍従室を左右に配置した三室から成る建造物であった。これらの建造物は、明治四十一年に、比治山に移転されたが、さきの大戦における原爆投下によって崩壊したことはまことに残念である。ともあれ、日清戦争は勝利に帰し、主上は明治二十八年四月二十七日、東京にお還幸遊ばされた。広島の市民はこの日を「大纛退転記念日」として、さきの「大纛進転記念日」(九月十五日)と共に、一日の家業を休んで、当時の主上のご苦労を偲び、大本営跡や御便殿を拝したという。

また、「奉送」の歌詞から、身近に御聖徳に浴した市民の欣びと、敬慕の情が伝わってくる。

吹き競ひたる 浪風も/長門の浦に をさまりて/いとも長閑に 立ちかへる/宇品の海の 八重がすみ/二葉の山の 百鳥も/もゝよろこびを 音にたてゝ/花の都に かへります/大纛あふぎて うたふなり/仰げや仰げ けふの日を/いつき島わの いつまでも

さて、主上の御聖徳は、一般市民の景仰するところとなり、明治四十五年七月、主上の御不例、御重態の折市民は、御便殿につどい、ご平癒を祈願した。また、同年七月三十日の御崩御の後、御便殿では十日祭、二十日祭、五十日祭等の祭事が執り行われた、と聞いている。尚、ことしは明治天皇百年式年祭にあたり、全国各地で御聖徳を偲び、式年祭が執行された、という。

最後に、吉田茂元首相の高著『世界と日本』(番町書房・昭、三八、十五刊、一二三頁)のなかから、次の一節を紹介してみよう。

維新の先輩は、国歩すこぶる困難を極めた際に適切に国政を処理して、よく興国の大業を成し遂げたが、その苦心は如何ばかりであったか、…。今日の世代の人々は概して祖国の歴史に暗く、明治の指導者の業績を十分に評価しない傾きがある。日清戦争、三国干渉、日露戦争と打ち続いた難局の打開に、我々の先輩が示した英知とその仏った努力とは、現に国際的にも高く評価されているのである。祖国の歴史に対して正当なる誇りを持たぬ国民は決して大をなさぬであろう。

とくに、多くの戦後世代の人々は、自虐史観或いは偏向した史観のなかで育ってきたものである。こうした環境を反省する時、右の吉田翁の言葉は、私たちの自戒の一節として、まことに大切な意味をもっている。

 

『鳴く虫に魅せられたハーン』
風呂鞏

ご存じ、清少納言の『枕草子』は「春はあけぼの」で始まる。そして「夏はよる」、「秋は夕暮」、「冬はつとめて」となる。秋の説明には更に「風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず」という文言も付け加えられている(注一)。たしかに、秋の夜に小さな虫の鳴く音に耳を傾ける瞬間ほど風情を感じさせてくれるものはあるまい。 清少納言は好ましい虫の代表として九種の名を挙げているが、その中に、「すずむし、ひぐらし、松虫、きりぎりす、はたおり」の鳴く虫五種が選ばれている。

二〇〇九年二月に発売開始された改訂版CDつきマガジン『日本のうた こころの歌』(全一〇〇号、隔週刊)がある。第一号には懐かしい「故郷」が載った。そして第二号には、「虫のこえ」が載っている。鳴く虫が如何に日本人に愛されるかが判るというものである。これは文部省唱歌で、明治四十三年七月発行の『尋常小学読本唱歌』に発表されているが、作詞者、作曲者ともに不明である。

あれ松虫が 鳴いている

ちんちろ ちんちろ ちんちろりん

あれ鈴虫も 鳴きだした

りんりんりんりん りいんりん

秋の夜長を 鳴き通す

ああおもしろい 虫のこえ

ここには一番のみ引用したが、二番には、こおろぎ、くつわ虫、馬おいなどの鳴き声が続いている(注二)。西洋人とは逆に、日本人は鳥や虫の声を脳の左半球で聞くといわれる。虫の鳴き声を言語と同じく左脳で受け入れるため、“雑音”どころか、美しい言葉として耳に響いてくるのである。

一八五〇年ギリシャで誕生したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その後アイルランドで育ち、アメリカで約二十年の生活を経て、やっと四十歳で日本の土を踏むことになった。明治三十七年(一九〇四)九月二十六日、五十四歳の短い生涯を終え、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に眠っている。小さな虫をこよなく愛したハーンは死の数日前、飼っていた松虫を妻のセツと共に自宅の庭にそっと放してやった。死を覚悟していたのであろう。この辺の事情は、妻セツの書いた『思い出の記』に詳しく述べられている。

虫について多くのエッセイを書いたハーンは、「本当に虫を愛する人種は、日本人と古代ギリシャ人だけである」と述べている。数多の虫の中でも、日本人ととりわけ関係が深いのは、秋の鳴く虫―バッタ目の「こおろぎ」と「きりぎりす」科の昆虫―であるが、日本には、「鳴く虫文化」が存在すると言ってよいと思う。

虫に魅せられたハーンは「虫の演奏家」(『異国情緒と回顧』所収、一八九九年)という、極めて興味深い作品を残した。よくぞここまで記録し残しておいてくれたものよ、と誇張ではなく、ハーンに向かって手を合わせ、拝みたくなるような内容である。

お宮の祭礼(縁日)から書き始め、鳴く虫を飼う習俗に関する日本の古典、鳴く虫の名所、虫売り(虫屋)とその歴史、鳴く虫の小売値段などについて事細かに記述している。そしてまつむし、すずむし、はたおりむし(ショウリョウバッタ)、うまおい(ハタケノウマオイとハヤシノウマオイ)、きりぎりす、くさひばり、きんひばり、くろひばり、こおろぎ、くつわむし、かんたん、といった虫たちおよび彼らを詠じた詩歌まで紹介しているのだ。

虫書の「四天王」の一人と言われる小西正泰氏は、その著『虫と人と本と』(創森社)の中で、次のように述べている。

戦後間もない頃、私はある昆虫誌の依頼で、虫屋の歴史について書いたことがある。その時には、かなりの資料にあたってみたが、結局ハーンの「虫の演奏家」にある記事が最も詳しく、かつ信頼できるものであった。他の著書のは、どれもこの一文を借用しているに過ぎないことがわかったのである。

ハーンが日本に住んだ時期は、オリエンタリズム、キリスト教普遍主義が世界を覆い、日本でも脱亜入欧の思想が叫ばれていた。そうした中で、虫を愛したハーンは「虫の演奏家」の最後の方で、次のような警句を西欧に向かって発している。

われわれ西洋人は、たった一匹のこおろぎが奏でる単純な音楽を聞いて、あふれるばかりの優美繊細な空想をその心に呼び起こすことの出来るこの国の人々から、何かをたしかに学ばなければならない。

忙しく時間が過ぎる現代だからこそ、ゆったりとした時間を作り、普段なら聞き逃してしまいそうな虫の声に耳を傾けてみたい。そしてハーンの思いを謙虚に、しかも、しっかりと受け止め、人生の真実とは何かを探る縁(よすが)としたいものだ。

(注一)『日本古典文学大系』(岩波書店)には、「おと」と「ね」には厳密な区別があり、前者は風・鐘など大体大きい音響の場合、後者は楽器、人の泣き声、鳥虫の声などに用いられる、との親切な注がある。現代人のうっかりするところであろう。

(注二)『万葉集』の時代には、鳴く虫はすべて「こおろぎ」と総称されていたと言われる。清少納言の頃には、鈴虫と松虫の呼称が今と入れ替わっていたし、また、今のこおろぎを当時きりぎりすと呼び、はたおりが今のきりぎりすを指していたのである。

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