お知らせ
月刊すみよし著者紹介
〜照沼好文氏〜
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
〜風呂 鞏氏〜
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『歴史の重み』
照沼 好文
明治天皇御製
花くはし櫻はあれと此やとの
世々のこゝろを我はとひけり
―『明治天皇紀』所載―
冒頭の御製は明治八年四月四日、主上が水戸徳川家当主、昭武公の小梅邸(現在、隅田公園)に行幸の折の御歌である。折しも、隅田川両岸の「桜花将(まさ)に綻(ほころ)びんとす」るとき、小梅邸の桜木も晴やかに、主上を奉迎申しあげた。木村武山画伯の『明治天皇小梅邸行幸の図』(明治神宮絵画館蔵)は、この日の光景をよく象徴している。
しかし、この美しい桜花もさることながら、主上はこの日、水戸歴代の藩主、なかんずく二代藩主光圀(義公)、九代藩主斉昭(烈公)―両公の麗しい真心に、親しく出会うことができたと、その叡感を、御製に托してご述懐遊ばされた。また、主上は昭武公を召され、優渥(ゆうあく)な勅語を賜っている。
朕親臨シテ光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ其功業ヲ思フ 汝昭武遺志ヲ継キ其能ク益勉励セヨ
―朕は本日、親しく昭武邸を訪問し、光圀・斉昭等の遺品に接した。そして、改めて光圀・斉昭等の維新、回天の事業に尽した働きが理解できた。汝昭武も、その立派な祖業を継逑して、一層国家社会のために貢献されよ。(大意)―
ところで、水戸近郊大洗町の景勝地、東光台に常陽明治記念館が建っている。この記念館は、田中光顕伯(明治の宮内大臣)の発案により、昭和四年地元有志の協力を得て、当地に創設された。
田中伯は、明治天皇のご仁徳をしのび、その英姿を後世にお伝へしたいと念願して、等身大の御尊像(銅像)を、同記念館に奉安された。その後、田中伯が宮中から拝領した品々、また、尊攘派の志士たちに関係する遺品等を同館に収蔵、一般にも公開し、いま行われている。
また、同館敷地の松林の中に、英傑藤田東湖像が建ち、近くに「義公遺愛の松」が四方に枝を張って、壮観な姿を見せている。この辺一帯には変らぬ松籟とともに、明治天皇のご仁徳と、義公以来の水戸の余重が今なお、さわやかに漂っている。
なお、明治天皇、皇后両陛下は明治二十三年十月二十六日より二十九日まで、水戸に行幸啓遊ばされ、両陛下還御の翌三十日には「教育勅語」が発布された。勅語渙発に先立ち、栗田寛博士は侍講元田永孚の需に応じ、『神聖宝訓広義』を起草して、侍講に呈している。「盖し、啓沃し資す」とは、碩学内藤耻叟翁の言葉であるが、とくに勅語と本書との密接な関係、即ち本書が勅語成立に関して、大きな役割を果した点は特筆に価する。
因みに、終戦直後即ち昭和二十二年正月の宮中歌会始における昭和天皇の御製に、
たのもしくよはあけそめぬ水戸の町
うつつちおともたかくきこえて
と、水戸での御歌を御披露遊ばされた。その前年二十一年十一月、水戸の町に行幸遊ばされ、維新功業の地水戸の復興を嘉みし給うた御製と拝察される。
とまれ、各地方風土には、それぞれ歴史の重みがある。いま私たちは、その歴史の重みを、よりおもく受けとめねばならぬときであると思う。即ち、混沌とした現代の世相をみる時に
『映画「レオニー」』
風呂鞏
彫刻家イサム・ノグチ(一九〇四−八八)は、広島市の平和記念公園(通称、平和公園)を訪れる人々にとって、お馴染みであろう。映画フアンなら、国際女優山口淑子(中国名、李香蘭)と結婚した人物であることが、思い浮かぶかも知れない。ともかく、平和公園南を東西に走る平和大通りに架かる二つの橋、「平和大橋」と「西平和大橋」欄干の斬新なデザインはイサム・ノグチ氏の作品としてガイドブックにもある。(注一)。
イサム・ノグチは日本人とアメリカ人の間に生まれた。父は著名な英詩人野口米次郎である。母レオニー・ギルモアは文学好きのアメリカ女性で、米次郎がニューヨークに居た時、自分の書く英文の手直しにと雇った助手であった。 元々米次郎はアメリカに永住する気などなかった。英米で成功を収めると、レオニーが身ごもっているにも拘わらず、日露戦争を機に、一方的に帰国した。止む無くレオニーは米次郎の子を一人で産んだ。ロサンゼルス郡立病院で難産の末に、私生児として産声をあげたのがイサム・ノグチなのである。
米次郎は慶応義塾を退学し、十八歳で渡米した。 やがて英米詩壇に詩人としての声名を高め、ニューヨークの雑誌社からハーン(小泉八雲)とのインタビュー記事も依頼された。ところが、一九〇四年帰国の米次郎は、八雲の急死のためそれが果たせなかった。市ヶ谷の瘤寺で挙行された告別式には出席し、納骨当日(明治三七年十月二日)に小泉家を訪問している。米次郎の著書『小泉八雲』(第一書房、大正十五)には次の文がある(注二)。
帰朝当時私は八雲に是非遇って見たいと思った。然し八雲の死を私が聞いた時の驚愕は、二十年後の今日でも容易に想像することが出来る。私は彼の死を帝国ホテルの食堂で聞いた。私が友人と血の滴るようなステキを食って居る際中であった。私はその時、八雲が嫌った西洋館で彼の死を聞く事はその所を得ていないと感じた。自分の余り西洋化し過ぎているのを、彼の死が罵ったかのやうにも思って、心に深い恥辱さへ感じた。私はその時確かに、「軍艦の一艘や二艘はなくしてもよいからヘルンを生かして置きたかった」と叫んだ。その頃は日露戦争の真際中であった。私のこの言葉がビスランドのヘルン傳に引用されていることを知っている人が日本にもあるであろう。日露戦争は済んだ。然しだ…過去二十年間に幾艘の軍艦が廃艦になっているか知れやしない。日露戦争当時活動した軍艦などは、今どう成っているか知れたものではないが、八雲の文章は二十年後の今日でも生きている。 二十年は愚か百年も二百年も立っても生きるであろう。彼の文学は永久に死なないであろう。
ハーンの長男・一雄は、昭和二十五年小山書店から『父小泉八雲』を出版した。著書の中で英詩人野口米次郎について言及している。先に述べた通り、日本人離れした白皙長身の紳士・野口氏は納骨当日小泉家を来訪し、一雄に挨拶したのである。
ヨネ・ノグチの文名は当時英米文壇に漸く認め始められていた。而も氏は恋愛問題で更に有名になりつつあった。氏は母国日本へ帰って来て、ほんの二、三日の差で生前のハーンに会えなかった事をこの時非常に残念がられた。 埋葬式参会の為の弔客の多い日であった。父の書斎から内ケ崎作三郎氏(筆者注:東大でのハーンの教え子。衆議院副議長も務めた)に導かれて私は庭前に出て、庭井の傍の父が遺愛の芭蕉の下で、野口氏に紹介された。氏は私に手を差延べて握手を求め、英語で話しかけられた。容貌、風采、アクセント、何れも純粋の日本人とは受け取れ難い人に思えた。
レオニーは二歳のイサムを抱いて日本へやって来た。日米混血の息子を父親の国で、日本人アーティストとして育てたいと願ったからである。然し、米次郎にはすでに正式な日本人の妻がいた。レオニーは小泉家などで英語の家庭教師をしながら生計を立て、息子への夢を追い続けた。やがて日本社会がその夢を許さないと知った母親は、イサムが十三歳になると、アメリカへ帰国させた。ミケランジェロの再来と謳われた巨匠誕生の裏には、息子の芸術家としての豊かな天分を信じて疑わなかった母親の拘(こだわ)り、意地があったのである。
イサム・ノグチにとって、東と西という二つの視点が作品制作の主軸であり、生涯に亘るマザーコンプレックスが女性関係に影響を与え、大地と母への渇望が、造形の源となった。これは、父ハーンの芸術的才能を受け継いだ三男清(画家)が、血管の中の西欧的なものと東洋的なものとの対立を常に意識し、その狭間で懊悩したことを想起させる。
ドウス昌代に名著『イサム・ノグチ―宿命の越境者』(講談社文庫、二〇〇三)がある。大芸術家イサム・ノグチの波瀾に富んだ生きざまを見事に活写したものである。
昨年末上演の松井久子監督(制作・脚本も担当)の映画『レオニー』は、上記『イサム・ノグチ―宿命の越境者』を参考に制作された。しかし、百年前シングルマザーとして日本の地を踏み、天才彫刻家イサム・ノグチを育て、自らも波乱の時代を生き抜いた、一人のアメリカ人女性レオニー・ギルモア、その生涯の方により大きなスポットライトを向けている。イサム・ノグチの母性回帰への旅を、その根源に奔流する母親という生命体の絶大な力へと昇華させた作品、これが映画『レオニー』の誇るべき功績であろう。
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