住吉神社

月刊 「すみよし」

『一陣の秋風ー新しい吉田茂評価ー』
 照沼 好文 

去る三月二十二日(平成二一年)午前六時頃、神奈川県大磯町西小磯、旧吉田茂邸から出火、木造二階建ての数寄屋風建物約三百坪が全焼したニュースは、翌二十三日の新聞各紙の一面に大きく報道された。幸いに兜門(かぶと)、七賢堂、日本庭園は焼失をまぬがれたという。特に、七賢堂は日本の近代国家の建設、発展、皇運の扶翼、国家国民のために奉公した政治家七名を、(1)一祠堂に合祀した旧吉田邸内祠である。この祠堂の例祭は、毎年十月二十六、又はそれに近い日曜日に執り行われている。私も二、三度参列させて頂き、秋のさわやかな松籟は今も私の耳底にある。

ところで先般、財団法人吉田茂国際基金編『歴史としての吉田時代―いま、吉田茂に学ぶもの―』(中央公論新社刊)という書籍が上記の財団法人から贈られた。本書は平成九年の、芳田茂没後三十周年を記念して開催されたシンポジウム「歴史としての吉田時代(第一部)と、平成十九年の同四十周年記念に行われたシンポジウム「いま、吉田茂に学ぶもの」(第二部)の二部が構成されている。特に、「昭和史の中でも戦前戦後の混乱期、特に戦後の敗戦処理と講和条約の締結、そして社会・経済復興基盤の整備に着手するなど吉田元総理の功績は高く評価され」(本書の『序』)、かつ「吉田があの時代に行った数々の業績は、冷戦の時代より…今こそ将来の日本のあり方を模索する上で手がかりになるようなものがあるのではないか」(五四頁)と言葉を聞けば、今回の本書刊行はまことに時宜を得ていると思う。そして、第一部、第二部の両シンポジウムの基調講演と各パネリストの方々を見れば、いずれも国内外の第一級の研究者が担当している点がまず注目される。(2)

ここで、本書のシンポジウムを」とおして、最も私の印象に残った感想を紹介してみよう。まず、基調講演のなかで北岡伸一(東大教授)氏は、戦前、戦後を通じた一貫性を、外交、政党政治、安全保障などの観点から述べられたが、柴田伸一(国学院大准教授)氏は「吉田茂の生涯変わらぬバックボーンのひとつとしての『皇室との関わり』」即ち、より具体的には「昭和天皇と吉田茂」というテーマから、吉田茂の一貫した尊皇思想を強調されたが、国際政治学の立場から、中西寛(京大大学院教授)氏は「吉田茂の戦後の安全保障に関する考え方」について述べ、安全保障は「いったい何を守るのか」という問題があるという。「国際政治の考え方では、そこで守らねばならないものは『中核的価値』とされております。それは各国がそれぞれ定義するいうことなっています。では、吉田にとっての『中核的価値』とは何か。さきほど柴田先生は『皇室』ではないかと言われましたが、私は、『国体』という観念ではないかとかんがえております。」と指摘している。結局「安全保障に関する吉田茂の考え方」は、「国際社会の中で日本の中核的価値を守っていくこと、すなわち国際社会の文脈と日本が守るべき中核的価値とを両立させることこそが国際政治、外交の要諦であると考えているところに、彼の優れた安全保障観がある」と結んでいる。

私たちは、こうした議論を久しく忘れていたが、今日の国際社会の中で、真剣に考えておかねばならぬ問題である。そして、『歴史としての吉田時代―いま、吉田茂に学ぶもの』の中には、以上のほかにも、日本における将来の進路を考える上に、大切なヒントが数多く述べられている。

嘗て、作家の辻井喬氏は吉田茂を評して、

晩年の吉田茂は自分の生涯を振返り、明治以後の歴史の変遷と将来の日本の姿について思いを巡すことも多かったのではないか。その意味で吉田茂は維新の精神を呼吸している最後の指導者だったと言えよう。(『新潮45』、昭和六二年八月号所収)

と述べている。果して、今後こうした偉大な人物の出現を待望できるだろうか。

[註]
(1)七賢帝の祭神について、「木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、三条実実、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂」以上七柱を祀る。
(2)第一部、基調講演北岡伸一/パネリスト柴田伸一/中西寛/河野康子/波多野澄一/綜合司会戸部良一、第二部、基調講演五百旗頭真/パネリスト井上寿一/ロバート・エルドリッヂ/潘 /総合司会波多野澄雄

 

『八雲と焼津の浅からぬ縁』
風呂鞏

鰹、鮪の水揚げ全国第一位を誇る静岡県の焼津市は、一九五四年ビキニ岩礁近海で水爆実験に遭い被爆した第五福竜丸でも有名だが、八雲が「神様の里」と呼び、松江や日御崎や隠岐と同じように愛した町でもある。古事記には「焼遺」とあり、また益頭が、後世益津(やくつ)となり焼津となったとも云う。古事記や日本書紀の日本武尊の記載は仮令伝説としても、弥生式土器が焼津神社(四〇七年創立)付近から出土しており、古代の東西往来の街道筋であったことが覗われる。戦国時代から漁業が発達し、元禄時代には既に鰹節が作られた。戦国雑誌に、当時駿府城にいた家康に初鰹を二匹、焼津から献上したとある。家康は鯛の天婦羅を食べすぎ、ひどい下痢で死んだが、その鯛は焼津の鯛であったのかもしれない。

小泉八雲とその家族が静岡県の焼津を訪れたのは、八雲が東京帝国大学講師となった翌年、一八九七(明治三〇)年八月四日であった。八雲は海が好きで水泳が大の得意であった。夏休みを海で過ごそうと、以前松江中学の教諭でその頃浜松中学の教諭であった田村豊久に誘われ舞坂を訪れた。しかし海が遠浅で気に入らず、偶々焼津に降りたところ、深くて荒い焼津の浜がたちまち気に入ったのであった(注一)。最初は新屋にあった“秋月楼”という割烹旅館に宿泊したが、冷遇されてそこを飛び出し、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の二階を借りることになったのである。

焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことの他、焼津の人々を好きになったこと、焼津気質を象徴するような山口乙吉という人を得たこと、がその主な理由である。明治三〇年以降、三二年、三三年、三四年、三五年、三七年、と八雲はほぼ毎年夏、一ヶ月前後を焼津に滞在した。

北山宏明著『小泉八雲と焼津』(焼津小泉八雲顕彰会)には次の言葉がある。

余程奇縁のない限り、焼津が八雲の如き世界的文豪の筆に載ることは、先ず有り得ないことなのだ。何の取り柄もない田舎の猟師町が「乙吉の達磨」「漂流」「焼津にて」等の麗筆に載って、広く世に知られるということは、素晴らしいことなのだ。松江を好み、熊本を嫌い、焼津を好み、東京を嫌った原因の主なものは、人間関係である。焼津にもし乙吉がいなかったならば、その滞在は、恐らく最初の一回きりだったに違いない。この意味で私達は、乙吉に対して深い感謝を表わさないではいられない。善意とか親切ということが、如何に尊いかということのお手本のようなものである。

平成十九年六月二七日、焼津市文化センター敷地内の市立図書館南側に「焼津小泉八雲記念館」が落成した。記念パンフレットに八雲の直孫小泉時氏の言葉がある。

八雲の好きなものの中には、必ず焼津が出て参ります。八雲にとり安らぎの地焼津は、素朴で純情な人々の暖かさに、焼津を「神様の村です」と気に入っていました。また八雲は乙吉を「乙吉さーま」と呼び、乙吉は「先生様」と呼び、乙吉さんを「神様のような仁です」と慕っておりました。八雲のお気に入りの理髪店があり、その技術に感服し、自分のナイフを研がせたところ、三銭の請求書に対し、八雲は、五十銭払った。帰京後床屋より拙い文字の礼状をもらい、日本の総理大臣からの感謝状より嬉しいと喜びました。焼津の荒波、ブルーの海をこよなく愛し、亡くなるその年まで家族と共に滞在しました。本年は八雲歿後百三年を迎えます。百年を越えた今日、未だに八雲を顕彰してくださる皆様に心から感謝申し上げます。また私共遺族、夫れ夫れが八雲と同じ気持ちで、交流させて頂いている事は、焼津の方々の実直な温かい人情の賜物、「なんぼうー!ありがたき」ことです。

その小泉時氏が本年七月八日、横浜市金沢区の横浜南共済病院で敗血症のため永眠。享年八四歳であった。氏は官立無線電信講習所(現・国立電気通信大学)を卒業後、山下汽船、三井船舶を経て、定年まで三十三年間、在日米軍司令部報道部に勤務した。退職後はギリシャ、アイルランド、その他国内の八雲縁りの地を訪問。講演や執筆活動を続けながら、残存する厖大な八雲関係の資料整理を行った。

昭和六十年、時氏は尚子夫人と共に、八雲生地、ギリシャのイオニヤ海に面したレフカダ島を訪問した。「亡くなるまで故郷との再会を果たせなかった祖父、心にかけながらも訪問の機会を得ず世を去った父に代わり、三代目の私が、一三五年ぶりに祖父の生地を踏んだ喜びは感慨一入であった」と著書『へルンと私』(恒文社)にある。八雲五四歳、一雄七二歳の生涯に比べて八四歳の人生を全うした時氏は、家族愛にも恵まれ、他からも愛され、本人自身も満足の行く充実した生涯であったのではあるまいか。

焼津駅前に、昭和四十二年建立の“小泉八雲像”と題した白御影石の顕彰碑がある。その表面には、八雲の横顔を彫ったブロンズのレリーフが嵌め込まれている。奇妙なことに、七月八日の朝、偶然そこを通りがかった焼津市八雲顕彰会のメンバーが、そのレリーフが無傷で剥がれ落ちているのを発見した。晩年特別な親しみを懐いていた焼津の人々に、八雲の霊がそっと、時氏の訃報を知らせたのかも知れない(注二)。

(注一)東海道線が開通して焼津駅が開設したのは明治二十二年で、八雲の来焼は、それより八年後のことである。
(注二)八雲は一九〇四年九月二六日に亡くなったが、その数日前、八雲が愛していた庭の櫻の一枝が暇乞いに返り咲きをした、と妻セツの『思い出の記』にある。

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