お知らせ
月刊すみよし著者紹介
〜照沼好文氏〜
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
平成25年帰幽
〜風呂 鞏氏〜
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『広島「平和の鐘」物語』
照沼好文
毎年八月六日の広島・原爆記念日に、広島「平和の鐘」の美しい音色が全国に流れる。この「平和の鐘」の製作をめぐっては、元宰相吉田茂翁との深い関わりがあったことを、御巫清尚氏(みかなぎ・きよひさ、元駐韓大使)が『人間吉田茂』(中央公論社、一九九一・八・一五刊)の中に、記録されている。関係者の方から私もお聞きしていたので、「平和の鐘」の由来を書き留めておこうと思った。
御巫氏に拠れば、広島「平和の鐘」の製作者は同氏の岳父香取正彦氏(かとり・まさひこ)であると聞いている。鋳金(ちょうきん)を専門とする工芸家香取氏は、昭和四十一年頃、広島の原爆記念日に撞かれる鐘の音色がよくないので、「何とかよいものにつくりかえてあげたい」と思った。そこで翌四十二年に、この鐘の鋳造に取り掛ろうとした時、香取氏は鐘の正面に吉田茂翁の「平和」の二字を鋳込むことを思い付き、この指毫の斡旋を御巫氏に依頼したという。御巫氏は、この間の経緯をこう述べている。
四月一日吉田氏の許を訪ねた折、機嫌の悪くないのを見はからって、香取の要請を説明し、巻紙に「平和」の二字と署名とを貰えば、吉岡専造氏に撮影してもらって適当な大きさに引き伸ばすことにするということで了承を得、早速巻紙と硯を取り寄せて書いてもらった。…
七月二十二日梵鐘が完成したので、再び吉岡氏に吉田氏の書が鋳込まれた鐘の写真をいろいろに撮ってもらった。
こうして「平和の鐘」は完成したが、香取氏はこの鐘を大磯の吉田邸まで運んで、まず吉田翁に音色を聞いていただいてから、広島市に引き渡したいと、御巫氏にその手配を依頼した。そのため、御巫氏は「七月二十五日大磯へ行く機会があったので、吉田氏の了解を取り付け、同二十七日香取は大磯に赴いた」という。
当日の大磯・吉田邸での模様は、香取氏の『坩堝(るつぼ)こぼれ話』に詳しいので、同書から引用しよう。
午後四時、大磯の吉田邸の庭で、この鐘を撞いて聞いて頂きました。吉田さんは足の具合がお悪いので、藤椅子に乗られたまま庭に出られて御覧になり、「あの字がこんなになったのですか」と感心されて美しい静かな音を聞かれうなづいていられ、御満足のようすでした。
この日はとても暑く夕方の四時とはいえカンカンと日が照りつけて、お体に障ったらたいへんとハラハラしていましが、吉田さんは早くから鐘を待ちかねていられたと側近のかたから伺いました。思えば私のささやかな作品に温く花を添えて頂き、一生の製作の中で最も幸いな作品となって広島に寄贈できたことを、深く吉田さんに感謝しています。
広島「平和の鐘」は、工芸家香取氏の作家生活中「最も幸いな作品」となったが、吉田翁はこの鐘の完成した昭和四十二年の十月二十日、八十九歳でこの世を去られた。
大磯・西小磯の旧吉田邸は平成二十一年三月二十二日全焼したが、吉田翁は日頃、大きなガラスを嵌めたサン・ルームから秀麗な富士の山容を仰ぐのを楽しみにしていたという。そしていま、吉田翁は爽やかな松籟と潮騒の響のなかに、美しい静かな広島「平和の鐘」の音色を聞きながら、静思黙考して去来する国の姿を凝視していたのでなかろうか。
なお、御巫氏に拠ると、一九八四年有名な指揮者クローディオ・アバド氏がベルリオーズの幻想交響曲の録音の際、この鐘の美しい音色に魅せられて特に録音に取り、これをレコードとして残したという。
『宇治川のホタル合戦など』
風呂鞏
早い所では五月末からか、今年もホタルが川辺を飛び交う時節はやって来た。淡く幻想的なホタルの光を見ると、誰しも生命の不思議さを感ぜずにはいられない。
ふと新聞の広告欄を眺めていると、「光り舞う、ホタルの里へ! 初夏の山里で幻想のひとときを!」という宣伝文句が目に留まった。市内から約一時間、温泉とお食事つき、しかも無料で送迎とある。山間の或る温泉郷が六月中旬から七月上旬まで実施する、ホタル観賞付き特別プランである。
田舎育ちの筆者には自然の懐に抱かれた幼少期が存在した。“ホタル”と云えば、戦時中小学校一年生の教科書に載っていた、“ホウ ホウ ホタル コイ”で始まり、同じ歌詞で終る「ホタル コイ」(作詞:林柳波、作曲:下総皖一)などの歌が回想されるが、夏の夜は、近くの谷川で乱舞する無数のホタルを追った。手掴みのホタルで籠は忽ち一杯になり、二宮金次郎ならぬ、ホタルの光で読書が楽しめるほどであった(注一)。
最近は河川改修や環境汚染が進み、ホタルを鑑賞できる場所は激減している。また一方、川をきれいにしてホタルを取り戻そうとの運動を始めた所もあると聞く。やや古い記事だが、一九九二年七月二八日の『中国新聞』夕刊「でるた」には、呉市水道局宮原浄水場の一角でホタルを人工飼育、場内を流れるせせらぎに放流したホタルが隣接する国立呉病院の庭に舞い込み、入院患者の心をなごませているという話が載っていた(注二)。
昆虫好きのハーンは、無論ホタルに魅せられた。小泉セツの『思い出の記』」では、明治二十五年(一八九二)の夏、伯耆から中国山地の山越えをして備後の福山に出る途中、山中の荒れ宿で深夜、絢爛幽寂なホタルの乱舞に遭遇、顔や手にも飛んできて当たるなど、狂喜しているハーンの様子が読める。ハーンが晩年の名品「螢」(一九〇二年の『骨董』所収)を書こうとした思いは、既にこの旅で芽生えていたのかも知れない(注三)。
ところで、元暦二年(一一八五)三月二十四日、源平最後の合戦が壇之浦で行われ、三種の神器の宝剣と共に平家は滅んだ。ハーンは『怪談』冒頭を飾る「耳なし芳一の話」の中で、壇之浦に沈んだ平家のサムライの亡霊が「平家蟹」の甲羅に刻印されている話を紹介した。伝説に拠ると、死に物狂いの平家のサムライ達の憤怒苦悶の形相が、蟹の甲羅に今もって現れていると謂われているのである。「平家蟹」に関し、ハーンは『骨董』でも触れているが、作品「螢」には、源平の合戦についてさらに興味深い記述がある。
“ホタル合戦の言い伝えを小泉八雲が書いている”と天声人語欄(二〇〇九・七・二)にも紹介があったが、両氏族のサムライの亡霊である源氏螢と平家螢が、あの十二世紀の氏族闘争を忘れることなく、毎年一回、旧四月二〇日の晩、京都府の宇治川で、大合戦をすると謂われている。両岸から、幾千幾万のホタルが一時にどっと舞い出して、水の上で組んずほぐれつ戦うのである。 螢合戦の済んだ後の宇治川はきらきら光るホタルの死骸に覆われ、まるで銀河のようになる。ハーンは加賀の千代女の句「川ばかり闇はながれて螢かな」を書き添え、この光景をより想像し易いものとしている(注四)。
ハーンの虫に関する素材は、彼の松江中学校、東京帝大時代の教え子で、のちに旧制の廣島高等学校教授になった大谷正信が、その多くのものを提供している。しかし虫についての有力な素材提供者は、実は他にもいた。例えば、ホタルに関しては、セツ夫人の遠縁にあたる三成重敬(当時東大史料編纂部)が、ハーンの依頼で古歌や俳句を探して提供している。
ハーンの作品「螢」全体は、七章から成る。ハーン自身、帝大の生物学教授・渡瀬庄三郎博士の講演とその著書『螢の話』に基づいていると告白しているが、ホタルの源平大合戦を初めとして、螢の名所、螢を売る商売、螢狩り、文学作品に現れた螢、螢に関する俳句、螢の発光のからくりとハーバート・スペンサーの学説との関連など、“ホタル”を題材にして、こんな面白い読物はめったにお目にかかれない。まさか源氏螢からの着想とも思えないが、文学作品との関連では、あの『源氏物語』にも言及のあることは、以前にも指摘した。
螢は、昔から、賞美の対象として、日本の詩歌にたくさん詠まれてきたが、初期の散文の中にもしばしば螢の記事が載っている。たとえば、十一世紀初頭の作といわれる、あの有名な小説、『源氏物語』五十四帖のなかに、「螢」という表題の一章がある。作者はそのなかで、ある青年貴公子が螢をたくさん捕えてきて、それを一時に放つという奇計を用い、闇に乗じてまんまとある若き姫君の顔を覗き見たという話を書いている。(長澤純夫訳)
明治三十五年に出版された渡瀬庄三郎の『螢の話』は、既に手にすることは容易でない。幸いに神田左京著『ホタル』(一九三五)とあわせて、南喜市郎著『ホタルの研究』が、大場信義の詳細な補遺と解説を得て、サイエンティスト社から一九八三年に復刻されている。ハーン文学の理解に資する好個の副読本として、二冊を紹介しておく。(ふろかたし)
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