住吉神社

月刊 「すみよし」

『八雲の授業ノートなど寄贈』
風呂鞏

一八九〇年(明治二三)四月、四〇歳で来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その年八月末には松江到着、九月から中学校および師範学校の教壇に立った。人生で初めて経験する生業、英語教師となったのである。 松江滞在は僅か一年三ヵ月ほどであったが、以後日本の土となって生涯を終えるまでの十四年間は、熊本および東京で、日本人に英語・英文学を教えるお雇い外国人教師として過ごした(但し、神戸では新聞記者)。

アメリカ時代の文筆修業の賜物か、ハーンは優れた教壇の人としての任務を果たす一方、日本滞在の十四年間に十三冊もの著作を発表した。 一年に一冊のハイペース、しかも彫心鏤骨の名品を次々と発表し、日本を海外に紹介し続けたのである。

来日第一作、即ち全十三冊の筆頭を飾るのが『見知らぬ日本の面影』である。松江時代までの見聞を中心としたものだが、上下二巻に二七の作品が収められている。出版されたのが、来日して約四年半後の一八九四年九月であるから、出版に要した歳月も相当に永い。ハーンの文学活動の三本柱の一つであるルポルタージュ(旅行記・滞在記)に類する作品集である。 個々に独立した短いスケッチやエッセイの中に巧みに民俗学的記述を配し、前作の『西インド諸島の二年間』と同じ筆法で書かれた傑作と評する研究家もいる。

人によって好みの異なるは無論であるが、『見知らぬ日本の面影』全二七作品群の中で、読者に圧倒的に深い感銘を与えるのは、「神々の国の首都」および「英語教師の日記から」の二篇、と噂されることが多い。

「神々の国の首都」は松江そのものの印象記である。言う迄もなく、“神々の国”は出雲地方を指し、“首都”はその中心的な都市の松江を指す。全二十二節から成り、明治二十年代の地方小都市・松江の佇まいを、聴覚、視覚を研ぎ澄まして観察し記述している。早くも怪談を二篇採取した上で、松江市民の日常生活に息づく神道信仰を紹介している。宿の寝床で聞く早朝の物音の描写から始まる書き出しは余りにも有名、詩的表現が誠に印象深い。

松江で、朝寝ていると響いてくる最初の物音は、ちょうど枕につけた耳の下に、どきんどきんと、大きく、ゆっくりと波打って聞こえる、あの心臓の脈搏に似た音だ。それは、大きく、静かに、何か物を打つような鈍い音ではあるが、一定の間隔を置いたその規則正しい間と、どこか奥深い所から漏れ響いてくるようなその感じと、聞こえるというよりは、むしろ、知覚するという程度に、枕に通ってくるその響き具合とが、心臓の鼓動に誠によく似ている。 この音は、ほかでもない、米を搗く太い杵の音なのだ。…実際、この音は、日本の国の脈搏の音だ。

この杵の音に続き、洞光寺という禅宗の寺にある大きな釣鐘の音が登場するのであるが、「英語教師の日記から」でも、この洞光寺が今一度重要な役割を演じることとなる。

「英語教師の日記から」は、ハーンがニューオーリンズ時代、既に新聞で開陳した教育観の実践記録と言ってもよい。ハーンには好きな生徒が五人いた。どれも甲乙つけがたいが、勉強のし過ぎで命を落とした横木富三郎(一八七四‐九一)の印象が殊の外鮮烈であった。

横木は小学校時代より成績抜群で、神童と呼ばれた。素封家の援助で中学校に学ぶことが出来、三年と四年の二学年にわたりハーンの教えを受けた。明治二四年九月下旬より臥床し、十二月十七日、十七歳九ヶ月をもって幽界に旅立った。横木の死をハーンに知らせたのは、横木の親友小豆沢八三郎であった。

松江で教壇に立ったハーンは、日本人の粗食が実に残酷な問題を提起していることを痛感していた。彼は、“ハーバート・スペンサーが既に指摘している通り、人間の活力の多寡は、精神的にも肉体的にも、一に食物の栄養にかかっている”と述べている。勉学によって受ける消耗は、強度の栄養を必要とするのである。そして日本の学生は、東洋の学問の上に必修科目、さらに英語も学ばなければならない。ハーンの危惧は尚も続き、「過労で若い肉体と若い頭脳の倒れるものが余りにも多い現状である。しかも倒れるのは鈍物ではなく、一校の花形、級中の秀才連中なのである」と禁じ得ぬ哀惜の情を吐露している。

この英語なるものが、日本人にとって難しいことは、日本語の構造を知らない人には、とても想像がつくまい。英語は日本語と大いに違っているから、ごく簡単な日本語の句でも、ただ単語の逐語訳や、思想の形を直訳しただけでは、英語にわかるように翻訳は出来ないのである。しかも、日本の学生は、これだけのものを、英国の少年だったらとても生きていけないような食物を食べながら、学んで行かなければならないのだ。

危篤の病床にある横木が、今生最後の頼みとして「学校が見たい」と言う。ついに横木は、寒い夜に下宿の爺やに背負ってもらい、星明りの下で校舎のシルエットを眺める。「学校をもう一度見られたので、僕はとても嬉しい」と満ち足りた顔で、再び爺やに背負われて夜道を戻る横木。「英語教師の日記から」で、最も読者の胸を打ち、涙を誘うシーンであろう。ハーンは十二月二十三日に洞光寺で行われた追悼法会の模様も詳細に書き添えている。

「中国新聞」(四月十九日付)に拠ると、横木富三郎さんの親族が、八雲の授業を記したノートなど史料一〇〇点余りを小泉八雲記念館に寄贈された。教壇に立ったハーンの思い、生徒への愛が奈辺にあったのか、ハーン像の解明に役立つ貴重な史料だ。是非共、ハーンの『見知らぬ日本の面影』を携えて記念館を訪ね、横木の遺品に触れてほしい。

(付記)文中ハーンからの引用文は、平井呈一訳を使用させて頂きました。なお横木富三郎に関しては、梶谷泰之著『へるん先生生活記』(恒文社)に詳細な報告がある。

神人和楽
宮司 森脇宗彦

先月から、サッカーワールドカップのブラジル大会の開幕で世界中が熱狂しています。日本は惜しくも一次リーグ敗退。住吉神社では前回の南アフリカ大会同様に、応援巫女で日本を応援しました。マスコミでも大きく取り上げられました。大変な反響でした。勝利の女神は日本には微笑まなかったですが、勝敗の行方は神様のみ知る…でしょう。もともとスポーツの起源は神事にあり、祭りにあります。

さて、今年の当社の夏祭りも近くなりました。夏とはいうもののまだ梅雨の最中です。

当社の夏祭りは「すみよしさん」として親しまれています。広島三大祭りの一つとして随分賑わいます。

祭りは、旧暦で行われ、七月十・十一日の両日です(旧暦六月十四・十五日)。

当社の夏祭りは、船を使った祭事として知られています。住吉神社のご祭神は、住吉大神(ソコツツノオノ命・ナカツツノオノ命・ウワツツノオノ命)で、船の守護神、海上安全の神様です。それにちなんで船の祭事がおこなわれるのです。

住吉神社の夏祭りの船渡御は、「広島管絃祭」とも言われます。宮島の厳島神社の管絃祭をまねたものです。ご神体を乗せた「御座船」を漕伝馬船で曳き本川・元安川を渡御する神事です。広島は「水の都」といわれています。水の都にふさわしい祭りなのです。

広島管絃祭は、江戸時代のころに起源があるといわれています。宮島厳島神社の管絃祭の御供船が結集して広島から出船したのにはじまるといわれています。

江戸時代の絵図には、広島の本川の橋の上は多くの人出でにぎわった様子が描かれています。厳島神社の管絃祭の前夜祭というべきものが広島管絃祭といえます。ちなみに厳島の管絃祭は旧暦六月十七日です。

昼には、子供神輿が町内を神幸いたします。一年に一度の神様のお出ましなのです。

大神様を和めるために神楽を奉納いたします。広島は神楽の盛んなところです。

今年は、あおぞら子供神楽団(安佐南区)、上殿神楽殿(安芸太田町)に奉納していただきます。

夏祭りには、「夏越祭り」をも合わせておこないます。「茅の輪くぐり」をして心身を御祓いいたします。この半年の心のリフレッシュをいたします。夏の暑さを無事過ごす行事なのです。

祭りの語源は、神様に「お供えを奉る」から来ているといわれています。神様にお供えを奉り、そしてそれをいただくのが「直会(なおらい)」といいます。祭りには神様の心を、心とし、神様のパワーをいただくのです。

祭りは、神様と人がともに楽しむ、神人和楽です。皆さんお揃いでお参りください。

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