住吉神社

月刊 「すみよし」

『最後の江田島兵学校長 栗田健男翁を偲ぶ』
照沼好文

最後の江田島兵学校長、栗田健男翁は水戸出身、明治の碩学栗田寛博士のお孫さんに当る方であったので、晩年の栗田翁にはお目にかかる機会が多かった。

実は史上最大の海戦といわれる昭和十九年十月の中部フィリピンのレイテ沖海戦の時、栗田中将が、主力艦隊の司令官であったが、私は当時の海戦の状況などの話を、直接お聞きしたことはなかった。栗田司令官はレイテ湾口に集結した米大輸送船団を攻撃するために、「大和」「武蔵」などの戦艦五隻、巡洋艦十二隻、駆遂艦十五隻などの第二艦隊を率いて、北ボルネオのブイネオを出航、レイテに向った。しかし、レイテ湾の手前で突然反転、戦後も戦局を左右した「なぞの転進」として大いに議論を呼んだ。が、栗田翁は遂にこの反転について弁明らしいことも語らず、昭和五十二年十二月にお亡くなりになった。

当時、『毎日新聞』(昭和五十二年十二月二十二日号)の「余禄」欄に、栗田長官の副官として行動を共にした西宮市在住、西田恒夫氏の言葉が紹介されていた。

(栗田長官の)反転をめぐる論議は、痛恨を禁じ得ないことです。一度目の反転は敵をあざむくため、二度目は敵を求めるもので、これは現場にあった者だけが知ることです。栗田長官が一言も弁明しなかったことに敬意を抱いています。

 と述べている。この言葉のあとに、編集者はつぎのように総括した。

戦後になって、当時レイテ湾はガラ空きだったとわかった。そこでもし、栗田艦隊が突っ込んでいたら、上陸米軍は粉砕できたかもしれない、という結果論が生まれ、日本が勝つチャンスをつぶしたのは栗田さんだといわんばかりの評論も出てきた。すでにこのころ戦局の大勢が決まっていたことを忘れた空論にすぎないが、栗田さんは、さぞ無念の思いをしたことであろう。

さて、栗田翁の亡くなられた翌昭和五十三年三月、旧江田島兵学校の同窓生が中心になって『栗田健男を偲ぶ会』を催した。参加者の方々は、栗田翁の為人や従来語られなかった戦場での行動など、それぞれ述べている。

その中で、第二艦隊司令官栗田中将の作戦参謀であった大谷藤之助氏の手記は、とくに印象深った。栗田長官はかのレイテ沖海戦出撃の前夜、各級指揮官を「愛宕」に参集を命じ、左記の訓示をされた。

連日連戦ニ専念スルモノ、正ニコノ一戦ニ期ス、各級指揮官始メ全員ノ将兵ガ、ソノ全軍ノ将士ガソノ精ヲ傾ケ、根ヲ尽クシテ余スコトナク、七生報国斃レテ尚、止マザルノ気魄ヲモッテ、全戦力ノ発揮ニイカンナカランコトヲ望ム、

余ハ、全軍ノ陣頭ニ立チ、気節ノ勇戦力鬪ヲ期待シ、誓ッテ敵艦ヲ殲滅シ、以テ聖慮ヲ休スンジ奉ランコトヲ期ス。

 栗田長官の身近にあった大谷参謀は、当時の状況と長官の心境を推測し、訓示にこめられた長官不屈の闘魂を伝えている。まさに、祖父栗田博士伝来の水戸精神が、この一文に継述されていると思わずにはおられない。

 

『「耳なし芳一のはなし」再考』
風呂鞏

昭和四十九年六月に創刊された文春文庫が三十周年を迎え、これを記念して、「心に残る物語―日本文学秀作選」シリーズが刊行された。その第二弾に、浅田次郎編『見上げれば星は天に満ちて』がある。森鴎外の「百物語」から小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」まで、全部で十三篇の作品が収録されている。この秀作選に採録された「耳なし芳一のはなし」は、上田和夫訳を底本としているが、浅田氏の書いている“あとがき”が極めて印象的なので、やや長いが此処にその一部を引用する。

ほぼ年代順に私の好きな短編小説を並べた。しかしひとつだけ順序をたがえて、小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」を掉尾に据えたことには意味がある。この作品は八雲のオリジナルではなく出典は古民話に拠るが、物語として本邦最高傑作であると私は信じている。目に光なき芳一が、音にのみ頼って恐怖の体験をし、ついにはその耳すらも奪われるという鮮やかな結構は奇跡を見るが如くである。しかも、そのように簡単に言ってしまったのでは身も蓋もないくらい、この物語にはさまざまの仕掛けが施されている。読み返すたびに新たな発見がある。日本の習俗を愛し、日本の美に帰依したラフカディオ・ハーンにしか、この稀有の物語を発掘し再生せしめることはできなかったであろう。そして彼が強度の弱視にして隻眼であった事実を思えば、いよいよこの物語との因縁浅からぬものを感ずる。小泉八雲の日本に対する愛着は、単なる異文化への憧憬ではなかったはずである。彼はキリスト教普遍主義の呪縛から遁れて自由なる美を求めた。いわば文化的亡命者であったと私は思う。そうした彼を司祭と定めて、日本の美神はこの奇跡の物語を授けたのではなかろうか。

浅田氏は小説家である前に小説好きを自負する作家だが、氏が「耳なし芳一のはなし」を本邦最高傑作であると位置づけている。我が言わんとする以上をズバリとご指摘下さった、胸のすくような有難い評言である。ただし、それほど多くの作家に親しんでいる訳でもない筆者の場合は、この作品がハーンの物した多くの作品群の中では、多分最高傑作であろう、と思う程度の謙虚な心酔なのであるが・・・

「広島ラフカディオ・ハーンの会」(小泉八雲愛好会)毎月の例会では、ハーンが日本での十四年間に書いた十三冊の著書、その冒頭作品を一作ずつ順番に読み進めている。今年になって第十一作目の『怪談』まで到達、目下その冒頭の名品「耳なし芳一のはなし」(テキストは原文と和訳の併用)に取り組んでいる。NHKの大河ドラマ『平清盛』とも相まって、毎回新しい発見があり知的な喜びを味わっている。浅田氏と同じく、「耳なし芳一のはなし」ほど“仕掛け”が巧みで“心に残る物語”はない、との思いも深めている。

盲目の琵琶法師芳一は『平家物語』を語った。ハーンは『源平盛衰記』を架蔵していたが、『平家物語』は持っていなかった。無論日本語の読めなかったハーンがこれらの本を読んだ記録はない。実は「耳なし芳一のはなし」は、江戸期の通俗本、一夕散人著『臥遊奇談』の第二巻所収の「琵琶秘曲泣幽霊」が典拠である。妻セツがこの物語を自分のものとして咀嚼・理解した上でハーンに語った。ハーンはセツの語りに耳を傾けながら、ストーリー(骨組)は変えず、そこに自己の全人生を投影させた、全く新しい再話作品を書き上げたのである。小泉セツ『思い出の記』には、次の説明がある。

この「耳なし芳一」を書いて居ます時の事でした。日が暮れてもランプをつけて居ません。私はふすまを開けないで、次の間から、小さい声で、芳一、芳一と呼んで見ました。「ハイ、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」と内から云って、それで黙って居るのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いて居る時には、その事ばかりに夢中になって居ました。…書斎の竹藪で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと「あれ、平家が亡びて行きます」とか、風の音を聞いて「壇ノ浦の波の音です」と真面目に耳をすまして居ました。

ギリシャ神話「オルフェウスの物語」やアイルランド民話「魔法のフィドル」の中で育ち、十六歳で左眼を失明したハーンは、養い親の叔母が破産、学歴不足のまま海を渡ったアメリカでは、社会の片隅に追いやられた黒人たちに心を寄せた。ジャーナリストとして自立しながらも文筆力で成功したいとの思いは止まず、また一方、左眼失明は人生の“敗者”としての烙印を押す、生涯を通じてのトラウマとなった。その思いは日本で増幅され、按摩・大黒舞・門づけなど「さすらい人」への関心として顕現した。

そうしたトラウマを抱えるハーンが、平家一門壊滅の水路である関門海峡を幾度か通るうちに、壇ノ浦の源平合戦を初めとして、民間の口承伝説などに触れた。盲目の琵琶法師の話も当然その中に入っていたであろう。妻のセツが語る芳一の原話に自分の人生経験の投影を感じとり、再話に熱中したのも不思議ではない。まさに、ハーンの人生は、「耳なし芳一」を書くための旅路であったと断じても過言ではなかろう。

“敗者”といえば、ハーンが辿ってきたギリシャ、アイルランド、ニューオーリンズ、マルティニークなど、所謂辺境の地は、何らかの形で“負”を背負った場所であった。日本にやって来て「神々の国」として最も心を寄せた出雲国ですら、国譲り神話が示している如く「ヤマト」に対して敗北したところである。そして平家一門は何よりもその代表であろう。その意味で、「耳なし芳一のはなし」には、普遍的無意識としての“敗者の美学”が強烈に感じられるのである。これこそまさに“怪談”の真髄ではあるまいか。

労作「耳なし芳一のはなし」は、ハーン美学の頂点であると同時に、人間性に対する深い洞察力とは何かを知るための最高の“道しるべ”なのである。

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